ま》なき月に虫の音の集《すだ》くにつけ、夫恋しき夜半《よわ》の頃、寝衣《ねまき》に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生《やよい》の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪《ろ》の声にのみ耳を澄ませば、生憎《あやにく》待たぬ時鳥《ほととぎす》。鯨の冬の凄《すさま》じさは、逆巻き寄する海の牙《きば》に、涙に氷る枕《まくら》を砕いて、泣く児を揺《ゆす》るは暴風雨《あらし》ならずや。
 母は腕《かいな》のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計《なりわい》。
 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖《あたたか》に、北は寒く、一条路《ひとすじみち》にも蔭日向《かげひなた》で、房州も西向《にしむき》の、館山《たてやま》北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川《かもがわ》、古川、白子《しらこ》、忽戸《ごっと》など、就中《なかんずく》、船幽霊《ふなゆうれい》の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重《ひとえ》の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海《ありそうみ》。
 この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石
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