くも》の囲《い》の檐《のき》を仰いだ、奴《やっこ》の出額《おでこ》は暗かった。
女房もそれなりに咽喉《のど》ほの白う仰向《あおむ》いて、目を閉じて見る、胸の中《うら》の覚え書。
「じゃ何だね、五月雨時分《さみだれじぶん》、夜中からあれた時だね。
まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生命《いのち》がけで飛込んでさ。
私はただ、波の音が恐しいので、宵から門《かど》へ鎖《じょう》をおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。
どんな烈《はげ》しい浪が来ても裏の崖《がけ》は崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打《ぶ》つかるごとに、崖と浪とで戦《いくさ》をする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾《よく》にして、冷《つめた》いとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。
そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船幽霊《ふなゆうれい》だのの中で、内の人は海から見りゃ木《こ》の葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は首垂《うなだ》れつつ、
「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に一雫《ひとしずく》、ほろりとして、
「済まないねえ。」
奴《やっこ》は何の仔細《しさい》も知らず、慰め顔に威勢の可《い》い声、
「何も済まねえッて事《こた》アありやしねえだ。よう、姉《あね》さん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄哥《あにや》がそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。
そのかわり今もいっけえよ。兄哥《あにや》のために姉さんが、お膳立《ぜんだ》てしたり、お酒買ったりよ。
おら、酒は飲まねえだ、お芋で可《い》いや。
よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡《なび》きます、あれは何ぞと問うたれば」
と、いたいけに手をたたき、
「石々《いしいし》合わせて、塩|汲《く》んで、玩弄《おもちゃ》のバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚《た》くわいのだ。……よう姉《あね》さん、」
奴《やっこ》は急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、
「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」
女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、
「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」
と調子をかえて、心ありげに呼びかける。
十一
「ああ、」
「あのね、私は何も新しい衣物《きもの》なんか欲《ほし》いとは思わないし、坊やも、お菓子も用《い》らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他《ほか》の商売にしておくれな、姉《ねえ》さん、お願いだがどうだろうね。」
と思い入ったか言《ことば》もあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。
奴《やっこ》は遊び過ぎた黄昏《たそがれ》の、鴉《からす》の鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上《うわ》つき、
「姉《あね》さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」
「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」
とそわそわするのを圧《おさ》えていったが、奴《やっこ》はよくも聞かないで、
「姉《あね》さんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽《たけ》から、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗賊《どろぼう》をする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。
姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」
と烏の下で小さく躍る。
「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と良人《おっと》[#ルビの「おっと」は底本では「をっと」]の帰る嬉しさに、何事も忘れた状《さま》で、女房は衣紋《えもん》を直した。
「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。
五六里の処、嗅《か》ぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙《ねら》うだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。
やあ、見さっせえ、また十五六羽|遣《や》って来た、沖の船は当ったぜ。
姉《あね》さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」
舌打の高慢さ、
「おらも乗って行《ゆ》きゃ小遣《こづかい》が貰《もれ》えたに、号外を遣って儲《もう》け損なった。お浜ッ児《こ》に何にも玩弄物《おもちゃ》が買えねえな。」
と出額《おでこ
前へ
次へ
全12ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング