海異記
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)裾《すそ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)幾億|尋《ひろ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そうしましょう/\
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一
砂山を細く開いた、両方の裾《すそ》が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞《うずくま》ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路《みち》の傍《かたえ》に、崖《がけ》に添うて、一軒漁師の小家《こいえ》がある。
崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄《くろがね》の楯《たて》を支《つ》いて、幾億|尋《ひろ》とも限り知られぬ、潮《うしお》の陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬《しのぎ》を削る頼母《たのも》しさ。砂山に生え交《まじ》る、茅《かや》、芒《すすき》はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代《ちよ》万代《よろずよ》の末かけて、巌《いわお》は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。
さればこそ、松五郎。我が勇《いさま》しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児《ちのみ》を残して、日ごとに、件《くだん》の門《かど》の前なる細路へ、衝《つ》とその後姿、相対《あいむか》える猛獣の間に突立《つった》つよと見れば、直ちに海原《うなばら》に潜《くぐ》るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕《こ》ぎ分けて、飛ぶ鴎《かもめ》よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。
留守はただ磯《いそ》吹く風に藻屑《もくず》の匂《にお》いの、襷《たすき》かけたる腕《かいな》に染むが、浜百合の薫《かおり》より、空燻《そらだき》より、女房には一際《ひときわ》床《ゆか》しく、小児《こども》を抱いたり、頬摺《ほおずり》したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物《ひもの》をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。
浪の音には馴《な》れた身も、鶏《とり》の音《ね》に驚きて、児《こ》と添臥《そいぶし》の夢を破り、門《かど》引《ひ》きあけて隈《くま》なき月に虫の音の集《すだ》くにつけ、夫恋しき夜半《よわ》の頃、寝衣《ねまき》に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生《やよい》の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪《ろ》の声にのみ耳を澄ませば、生憎《あやにく》待たぬ時鳥《ほととぎす》。鯨の冬の凄《すさま》じさは、逆巻き寄する海の牙《きば》に、涙に氷る枕《まくら》を砕いて、泣く児を揺《ゆす》るは暴風雨《あらし》ならずや。
母は腕《かいな》のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計《なりわい》。
津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖《あたたか》に、北は寒く、一条路《ひとすじみち》にも蔭日向《かげひなた》で、房州も西向《にしむき》の、館山《たてやま》北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川《かもがわ》、古川、白子《しらこ》、忽戸《ごっと》など、就中《なかんずく》、船幽霊《ふなゆうれい》の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重《ひとえ》の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海《ありそうみ》。
この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家造《やづく》り、近ごろ別家をしたばかりで、葺《ふ》いた茅《かや》さえ浅みどり、新藁《しんわら》かけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年紀《とし》はまだ二十二三。
去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産《ういざん》で、お浜といえば砂《いさご》さえ、敷妙《しきたえ》の一粒種《ひとつぶだね》。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳《まくらがや》の蒼《あお》き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入《ねい》っているが、可愛らしさは四辺《あたり》にこぼれた、畳も、縁も、手遊《おもちゃ》、玩弄物《おもちゃ》。
犬張子《いぬはりこ》が横に寝て、起上り小法師《こぼし》のころりと坐《すわ》った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳《そえぢ》の衣紋《えもん》も繕わず、姉《あね》さんかぶりを軽《かろ》くして、襷《たすき》がけの二の腕あたり、日ざしに惜気《おしげ》なけれども、都育ちの白やかに、紅絹《もみ》の切《きれ》をぴたぴたと、指を反らした手の捌《さば》き、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿《たど》るよう、世帯染みたがなお優しい。
秋日和の三時ごろ、人の影より、黍《きび》の影、一つ赤蜻蛉
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