《あかとんぼ》の飛ぶ向うの畝《あぜ》を、威勢の可《い》い声。
「号外、号外。」

       二

「三ちゃん、何の号外だね、」
 と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場《りょうば》の馴染《なじみ》の奴《やっこ》、張《はり》ものにうつむいたまま、徒然《つれづれ》らしい声を懸ける。
 片手を懐中《ふところ》へ突込《つっこ》んで、どう、してこました買喰《かいぐい》やら、一番蛇を呑《の》んだ袋を懐中《ふところ》。微塵棒《みじんぼう》を縦にして、前歯でへし折って噛《かじ》りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻《はちまき》。少兀《すこはげ》の紺の筒袖《つつそで》、どこの媽々衆《かかあしゅう》に貰《もら》ったやら、浅黄《あさぎ》の扱帯《しごき》の裂けたのを、縄に捩《よ》った一重《ひとえ》まわし、小生意気に尻下《しりさが》り。
 これが親仁《おやじ》は念仏爺《ねんぶつじじい》で、網の破れを繕ううちも、数珠《じゅず》を放さず手にかけながら、葎《むぐら》の中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗《のぞ》くと、いつも前はだけの胡坐《あぐら》の膝《ひざ》へ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙《ねらい》は違えず、真黒《まっくろ》な羽をばさりと落して、奴《やっこ》、おさえろ、と見向《みむき》もせず、また南無阿弥陀《なむあみだ》で手内職。
 晩のお菜《かず》に、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺《じい》の因果が孫に報《むく》って、渾名《あだな》を小烏《こがらす》の三之助、数え年十三の大柄な童《わっぱ》でござる。
 掻垂《かきた》れ眉を上と下、大きな口で莞爾《にっこり》した。
「姉様《あねさん》、己《おら》の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」
「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切《もみぎれ》の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸《のば》していう。
「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」
「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」
「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様《あねさん》、」
「甘いものを食べてさ、がりがり噛《かじ》って、乱暴じゃないかねえ。」
「うむ、これかい。」
 と目を上《うわ》ざまに細うして、下唇をぺろりと嘗《な》めた。肩も脛《すね》も懐も、がさがさと袋を揺《ゆす》って、
「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己《おら》が嫁さんに遣《や》ろうと思って、姥《おんば》が店で買って来たんで、旨《うま》そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」
 とくるりと、はり板に並んで向《むき》をかえ、縁側に手を支《つ》いて、納戸の方を覗《のぞ》きながら、
「やあ、寝てやがら、姉様《あねさん》、己《おら》が嫁さんは寝《ねん》ねかな。」
「ああ、今しがた昼寝をしたの。」
「人情がないぜ、なあ、己《おら》が旨いものを持って来るのに。
 ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児《こ》。へ、」
 とのめずるように頸《うなじ》を窘《すく》め、腰を引いて、
「何にもいわねえや、蠅《はえ》ばかり、ぶんぶんいってまわってら。」
「ほんとに酷《ひど》い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀《かわい》そうなように集《たか》るんだよ。それにこうやって糊《のり》があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許《とこ》なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干《いくら》か少なかろうねえ。」
「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕《ふんづかめ》えて、岡田螺《おかだにし》とか何とかいって、お汁《つけ》の実にしたいようだ。」
 とけろりとして真顔にいう。

       三

 こんな年していうことの、世帯じみたも暮向《くらしむ》き、塩焼く煙も一列《ひとつら》に、おなじ霞《かすみ》の藁屋《わらや》同士と、女房は打微笑《うちほほえ》み、
「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。」
 奴《やっこ》は心づいて笑い出し、
「ははは、所帯じみねえでよ、姉《あね》さん。こんのお浜ッ子が出来てから、己《おら》なりたけ小遣《こづかい》はつかわねえ。吉や、七と、一銭《いちもん》こを遣《や》ってもな、大事に気をつけてら。玩弄物《おもちゃ》だのな、飴《あめ》だのな、いろんなものを買って来るんだ。」
 女房は何となく、手拭《てぬぐい》の中《うち》に伏目《ふしめ》になって、声の調子も沈みながら、
「三ちゃんは、ど
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