》をがッくり、爪尖《つまさき》に蠣殻《かきがら》を突ッかけて、赤蜻蛉《あかとんぼ》の散ったあとへ、ぼたぼたと溢《こぼ》れて映る、烏の影へ足礫《あしつぶて》。
「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」
 黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、
「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他《ほか》の商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。
 奴《やっこ》ははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、
「何だって、漁師を止《や》めて、何だって、よ。」
「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐《こわ》いじゃないか。
 内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家《うち》へ入って窘《すく》んでいても、向うが強ければ捉《つか》まえられるよ。お浜は嬰児《あかんぼ》だし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」
 としみじみいうのを、呆《あき》れた顔して、聞き澄ました、奴《やっこ》は上唇を舌で甞《な》め、眦《めじり》を下げて哄々《くっくっ》とふき出《いだ》し。
「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚《うお》が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行《ある》いて、鰭《ひれ》で棹《さお》を持つのかよ、よう、姉《あね》さん。」
「そりゃ鰹《かつお》や、鯖《さば》が、棹を背負《しょ》って、そこから浜を歩行《ある》いて来て、軒へ踞《しゃが》むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲《す》んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」
 と女房は早や薄暗い納戸の方《かた》を顧みる。

       十二

「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」
 とうら寂しげな夕間暮《ゆうまぐれ》、生干《なまび》の紅絹《もみ》も黒ずんで、四辺《あたり》はものの磯《いそ》の風。
 奴《やっこ》は、旧《もと》来た黍《きび》がらの痩《や》せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径《こみち》を見返り、
「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈《がすとう》でも点《つ》けるだよ、兄哥《あにや》もそれだから稼ぐんだ。」
「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀《かわい》そうだから、号外屋でも何んでもいい、他《ほか》の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可《い》いかい、解《わか》ったの、三ちゃん。」
 と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉《からす》も頷《うなず》き顔。
「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈《か》けまわるだ、帰ったら一番、爺様《じいさま》と相談すべいか、だって、お銭《あし》にゃならねえとよ。」
 と奴《やっこ》は悄乎《しょ》げて指を噛《か》む。
「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然《いきなり》そんな事をいっちゃ不可《いけな》いよ、まあ、話だわね。」
 と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板《はりいた》をそっと撫《な》で、
「慾張ったから乾き切らない。」
「何、姉《あね》さんが泣くからだ、」
 と唐突《だしぬけ》にいわれたので、急に胸がせまったらしい。
「ああ、」
 と片袖《かたそで》を目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。
「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」
 三之助はまた笑い、
「海から魚が釣りに来ただよ。」
「あれ、厭《いや》、驚《おど》かしちゃ……」
 お浜がむずかって、蚊帳《かや》が動く。
「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚《おど》かすもんだから、」
 と片頬《かたほ》に莞爾《にっこり》、ちょいと睨《にら》んで、
「あいよ、あいよ、」
「やあ、目を覚《さま》したら密《そっ》と見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先刻《さっき》から辛抱してただ。」と、かごとがましく身を曲《くね》る。
「お逢《あ》いなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」
 と女房は暗い納戸で、母衣蚊帳《ほろがや》の前で身動《みじろ》ぎした。
「おっと、」
 奴《やっこ》は縁に飛びついたが、
「ああ、跣足《はだし》だ姉《あね》さん。」
 と脛《すね》をもじもじ。
「可《いい》よ、お上りよ。」
「だって、姉《あね》さんは綺麗《きれい》ずきだからな。」
「構わないよ、ねえ、」
 と
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