、弱い音《ね》を出しやあがるなッて、此家《こん》の兄哥《あにや》が怒鳴るだけんど、見す見す天竺《てんじく》へ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、陸《おか》へ上《あが》って呼吸《いき》が吐《つ》きたい、助け船――なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥|真直《まっすぐ》に突立って、ぶるッと身震《みぶるい》をさしっけえよ、突然《いきなり》素裸《すっぱだか》になっただね。」
「内の人が、」と声を出して、女房は唾《つ》を呑《の》んだ。
「兄哥《あにや》がよ。おい。
あやかし火さ、まだ舵に憑《つ》いて放れねえだ、天窓《あたま》から黄色に光った下腹へな、鮪縄《まぐろなわ》さ、ぐるぐると巻きつけて、その片端《かたはじ》を、胴の間の横木へ結《ゆわ》えつけると、さあ、念ばらしだ、娑婆《しゃば》か、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの兄哥《あにや》が、渾名《あだな》に呼ばれた海雀《うみすずめ》よ。鳥のようにびらりと刎《は》ねたわ、海の中へ、飛込むでねえ――真白《まっしろ》な波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ――駈上《かけあが》るだ。
百尋《ひゃくひろ》ばかり束《つか》ね上げた鮪縄の、舷《ふなべり》より高かったのがよ、一掬《ひとすく》いにずッと伸《の》した! その、十丈、十五丈、弓なりに上から覗《のぞ》くのやら、反りかえって、睨《にら》むのやら、口さあげて威《おど》すのやら、蔽《おお》わりかかって取り囲んだ、黒坊主の立《たち》はだかっている中へ浪に揉《も》まれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。
やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を打《ぶッ》つける暗礁《かくれいわ》があるばかりだ、迷うな、ッていわしった。
お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、皆《みんな》握拳《にぎりこぶし》で拝んだだがね。
坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。
急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。
ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、皆《みんな》くそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお太陽《てんとう》さまが上《あが》らっしたが、そこでも、姉《あね》さん、天と波と、上下《うえした》へ放れただ。昨夜《ゆうべ》、化鮫《ばけざめ》の背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、嶽《たけ》の堂が目の果《はて》へ出て来ただよ。」
女房はほっとしたような顔色《かおつき》で、
「まあ、可《よ》かったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。」
「思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。」
「三十里、」
とまた驚いた状《さま》である。
「何だなあ、姉《あね》さん、三十里ぐれえ何でもねえや。
それで、はあ夜が明けると、黄色く環《わ》どって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の奴《やつ》だの、首のねえのだの、蝦蟇《がま》が呼吸《いき》吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ絡《から》まっているようなのだの、牛だの、馬だの、異形《いぎょう》なものが、影燈籠《かげどうろう》見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ行《ゆ》くだね。」
十
「あとで、はい、理右衛門爺《りえむじい》さまもそういっけえ、この年になるまで、昨夜《ゆうべ》ぐれえ執念深《しゅうねんぶけ》えあやかしの憑《つ》いた事はねえだって。
姉《あね》さん。
何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈《か》け出して失《う》せるだに、手許《てもと》が明《あかる》くなって、皆《みんな》の顔が土気色《つちけいろ》になって見えてよ、艪《ろ》が白うなったのに、舵《かじ》にくいついた、えてものめ、まだ退《の》かねえだ。
お太陽《てんとう》さまお庇《かげ》だね。その色が段々|蒼《あお》くなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾《すそ》の方が水際で膨れたあ、蛭《ひる》めが、吸い肥《ふと》ったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突張《つっぱ》って、刎《は》ねてるだ。
まあ、めでてえ、と皆《みんな》で顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣物《きもの》が一枚出来たっぺい、あん時の鰹《かつお》さ、今年中での大漁だ。
舳《みよし》に立って釣らしった兄哥《あにや》の身《からだ》のまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」
と暮れかかる蜘蛛《
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