ろがや》を差覗《さしのぞ》く。
「嬰児《あかんぼ》が、何を知ってさ。」
「それでも夢に見て魘《うな》されら。」
「ちょいと、そんなに恐怖《こわ》い事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。
「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉《あね》さん、この五月、三日流しの鰹船《かつおぶね》で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。
 野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩《おそ》めに夕飯を食ったあとでよ。
 昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆《みんな》胴の間《ま》へもぐってな、そん時に千太どんが漕《こ》がしっけえ。
 急に、おお寒い、おお寒い、風邪《かぜ》揚句《あげく》だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫《とも》からドンと飛下りただ。
 船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸《おか》へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」
 女房は打頷《うちうなず》いた襟さみしく、乳《ち》の張る胸をおさえたのである。

       六

「晩飯の菜に、塩からさ嘗《な》め過ぎた。どれ、糠雨《ぬかあめ》でも飲むべい、とってな、理右衛門《りえむ》どんが入交《いれか》わって漕《こ》がしつけえ。
 や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫《とも》で爺《じッ》さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓《あたま》から褞袍《どてら》被《かぶ》ってころげた達磨《だるま》よ。
 ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽《かすか》に呼ばる声がするだね。
 どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。
 来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝気《せんき》がきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞《しゃが》まねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小半時《こはんとき》でまた理右衛門|爺《じい》さまが潜っただよ。
 われ漕《こ》げ、頭痛だ、汝《きさま》漕げ、脚気《かっけ》だ、と皆《みんな》苦い顔をして、出人《でて》がねえだね。
 平胡坐《ひらあぐら》でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家《ここ》の兄哥《あにや》が、奴《やっこ》、汝《てめえ》漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかり
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