だ、おっとまかせ。」と、奴《やっこ》は顱巻《はちまき》の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、
「いきなり艫《とも》へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷《すべ》るというもんだ。
どッこいな、と腰を極《き》めたが、ずッしりと手答えして、槻《けやき》の大木根こそぎにしたほどな大《おおき》い艪《ろ》の奴《やつ》、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行《ある》くようで、底が轟々《ごうごう》と沸《に》えくり返るだ。
ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗《まっくら》な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。
西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝《うね》ると同一《おんなじ》に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。
その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒《まっくろ》な中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。
やあ、火が点《とも》れたいッて、おらあ、吃驚《びっくり》して喚《わめ》くとな、……姉《あね》さん。」
「おお、」と女房は変った声音《こわね》。
「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間《ま》で、苫《とま》の下でいわっしゃる。
また、千太がね、あれもよ、陸《おか》の人魂《ひとだま》で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生|逢《あ》わねえというんだが、十三で出っくわした、奴《やつ》は幸福《しあわせ》よ、と吐《こ》くだあね。
おらあ、それを聞くと、艪《ろ》づかを握った手首から、寒くなったあ。」
「……まあ、厭《いや》じゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐怖《こわ》いわねえ。」
とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然《ぞっ》とする。奴《やっこ》の顔色、赤蜻蛉《あかとんぼ》、黍《きび》の穂も夕づく日。
「そ、そんなくれえで、お浜ッ児《こ》の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。
炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。
姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形《かた》だんべい、おらが天窓《あたま》より高くなったり、船底へ崖《がけ》が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇のの
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