交えぬ老《おい》の眼《まなこ》は塞《ふさ》いだ。
 またもや念ずる法華経の偈《げ》の一節《ひとふし》。
 やがて曇った夜の色を浴びながら満水して濁った川は、どんと船を突上げたばかりで、忘れたようにその犠《にえ》を七兵衛の手に残して、何事もなく流れ流るる。


     衣の雫

       十

 待乳屋の娘菊枝は、不動の縁日にといって内を出た時、沢山ある髪を結綿《ゆいわた》に結っていた、角絞《つのしぼ》りの鹿《か》の子の切《きれ》、浅葱《あさぎ》と赤と二筋を花がけにしてこれが昼過ぎに出来たので、衣服《きもの》は薄お納戸の棒縞《ぼうじま》糸織の袷《あわせ》、薄紫の裾《すそ》廻し、唐繻子《とうじゅす》の襟を掛《かけ》て、赤地に白菊の半襟、緋鹿《ひが》の子の腰巻、朱鷺色《ときいろ》の扱帯《しごき》をきりきりと巻いて、萌黄繻子《もえぎじゅす》と緋の板じめ縮緬《ちりめん》を打合せの帯、結目《むすびめ》を小さく、心《しん》を入れないで帯上《おびあげ》は赤の菊五郎格子、帯留《おびどめ》も赤と紫との打交ぜ、素足に小町下駄を穿《は》いてからからと家《うち》を。
 一体|三味線《さみせん》屋で、家業柄
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