って漂々然。

       九

 蓬莱橋は早や見える、折から月に薄雲がかかったので、野も川も、船頭と船とを淡く残して一面に白み渡った、水の色は殊にやや濁《にごり》を帯びたが、果《はて》もなく洋々として大河のごとく、七兵衛はさながら棲息《せいそく》して呼吸するもののない、月世界の海を渡るに斉《ひと》しい。
「妙法蓮華経如来寿量品。」と繰返したが、聞くものの魂が舷《ふなばた》のあたりにさまようような、ものの怪《け》が絡《まつわ》ったか。烏が二声ばかり啼《な》いて通った。七兵衛は空を仰いで、
「曇って来た、雨返しがありそうだな、自我得仏来所経、」となだらかにまた頓着《とんじゃく》しない、すべてのものを忘れたという音調で誦《じゅ》するのである。
 船は水面を横に波状動を起して、急に烈《はげ》しく揺れた。
 読経をはたと留め、
「やあ、やあ、かしが、」と呟《つぶや》きざま艫《とも》を左へ漕《こ》ぎ開くと、二条《ふたすじ》糸を引いて斜《ななめ》に描かれたのは電《いなづま》の裾《すそ》に似たる綾《あや》である。
 七兵衛は腰を撓《た》めて、突立《つった》って、逸疾《いちはや》く一間ばかり遣違《や
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