同一頃が、親仁《おやじ》の胸に描かれた。
「姉《ねえ》や、姉や、」と改めて呼びかけて、わずかに身を動かす背《そびら》に手を置き、
「道理じゃ、善《い》いにしろ、悪いにしろ、死のうとまで思って、一旦《いったん》水の中で引取ったほどの昨夜《ゆうべ》の今じゃ、何か話しかけられても、胸へ落着かねえでかえって頭痛でもしちゃあ悪いや、な。だから私《わし》あ何にも謂わねえ。
一体|昨夜《ゆうべ》お前《めえ》を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが、いやいやそうでねえ、川へ落ちたか落されたかそれとも身を投げたか、よく見れば様子で知れらあ、お前は覚悟をしたものだ。
覚悟をするには仔細《しさい》があろう、幸いことか悲しいことか、そこン処は分らねえが、死のうとまでしたものを、私《わし》が騒ぎ立って、江戸中知れ渡って、捕《つかま》っちゃあならねえものに捕るか、会っちゃあならねえものに会ったりすりゃ、余計な苦患《くげん》をさせるようなものだ。」七兵衛は口軽に、
「とこう思っての、密《そっ》と負《おぶ》って来て届かねえ介抱をしてみたが、いや半間《はんま》な手が届いたのもお前《めえ》の運よ、こりゃ天道様《てんとうさま》のお情《なさけ》というもんじゃ、無駄にしては相済まぬ。必ず軽忽《かるはずみ》なことをすまいぞ、むむ姉や、見りゃ両親《ふたおや》も居なさろうと思われら、まあよく考えてみさっせえ。
そこで胸を静めてじっと腹を落着けて考えるに、私《わし》が傍《そば》に居ては気を取られてよくあるめえ、直ぐにこれから仕事に出て、蝸牛《まいまいつぶろ》の殻をあけるだ。可《よ》しか、桟敷《さじき》は一日貸切だぜ。」
十五
「起きようと寝ようと勝手次第、お飯《まんま》を食べるなら、冷飯《おひや》があるから茶漬にしてやらっせえ、水を一|手桶《ておけ》汲《く》んであら、可《い》いか、そしてまあ緩々《ゆっくり》と思案をするだ。
思案をするじゃが、短気な方へ向くめえよ、後生だから一番方角を暗剣殺に取違えねえようにの、何とか分別をつけさっせえ。
幸福《しあわせ》と親御の処へなりまた伯父御叔母御の処へなり、帰るような気になったら、私《わし》に辞儀も挨拶《あいさつ》もいらねえからさっ
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