さと帰りねえ、お前《めえ》が知ってるという蓬薬橋は、広場《ひろっぱ》を抜けると大きな松の木と柳の木が川ぶちにある、その間から斜向《はすかい》に向うに見えらあ、可いかい。
 また居ようと思うなら振方《ふりかた》を考えるまで二日でも三日でも居さっせえ、私《わし》ン処はちっとも案ずることはねえんだから。
 その内に思案して、明《あか》して相談をして可いと思ったら、謂《い》って見さっせえ、この皺面《しわづら》あ突出して成ることなら素《そ》ッ首は要らねえよ。
 私《わし》あしみじみ可愛くってならねえわ。
 それからの、ここに居る分にゃあうっかり外へ出めえよ、実は、」
 と声を密《ひそ》めながら、
「ここいらは廓外《くるわそと》で、お物見下のような処だから、いや遣手《やりて》だわ、新造《しんぞ》だわ、その妹だわ、破落戸《ごろつき》の兄貴だわ、口入宿《くちいれやど》だわ、慶庵だわ、中にゃあお前|勾引《かどわかし》をしかねねえような奴等が出入《でいり》をすることがあるからの、飛んでもねえ口に乗せられたり、猿轡《さるぐつわ》を嵌《は》められたりすると大変だ。
 それだからこうやって、夜|夜中《よなか》開放《あけっぱな》しの門も閉めておく、分ったかい。家《うち》へ帰るならさっさと帰らっせえよ、俺《わし》にかけかまいはちっともねえ。じゃあ、俺は出懸けるぜ、手足を伸《のば》して、思うさま考えな。」
 と返事は強いないので、七兵衛はずいと立って、七輪の前へ来ると、蹲《しゃが》んで、力なげに一服吸って三服目をはたいた、駄六張《だろくばり》の真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》の雁首《がんくび》をかえして、突《つつ》いて火を寄せて、二ツ提《さげ》の煙草入《たばこいれ》にコツンと指し、手拭《てぬぐい》と一所にぐいと三尺に挟んで立上り、つかつかと出て、まだ雫《しずく》の止《や》まぬ、びしょ濡《ぬれ》の衣を振返って、憂慮《きづかわし》げに土間に下りて、草履を突《つっ》かけたが、立淀《たちよど》んで、やがて、その手拭を取って頬被《ほおかぶり》。七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原《あしはら》、処々に水溜《たまり》、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄切って、赤蜻蛉《あかとんぼ》が一ツ行《ゆ》き二ツ行き、遠方《おちかた》に小さく、釣《つり》をする人のうしろに、ちら
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