たろう。」
「いいえ、泣きとうございました。」
記念ながら
十四
二ツ三ツ話の口が開《あ》けると老功の七兵衛ちっとも透《すか》さず、
「何しろ娑婆《しゃば》へ帰ってまず目出度《めでたい》、そこで嬰児《あかんぼ》は名は何と謂《い》う、お花か、お梅か、それとも。」
「ええ、」といいかけて菊枝は急に黙ってしまった。
様子を見て、七兵衛は気を替えて、
「可《い》いや、まあそんなことは。ところで、粥《かゆ》が出来たが一杯どうじゃ、またぐっと力が着くぜ。」
「何にも喰べられやしませんわ。」と膠《にべ》の無い返事をして、菊枝は何か思出してまた潸然《さめざめ》とするのである。
「それも可いよ。はは、何か謂われると気に障って煩《うるさ》いな? 可いや、可いやお前になってみりゃ、盆も正月も一斉《いちどき》じゃ、無理はねえ。
それでは御免|蒙《こうむ》って、私《わし》は一膳《いちぜん》遣附《やッつ》けるぜ。鍋《なべ》の底はじりじりいう、昨夜《ゆうべ》から気を揉《も》んで酒の虫は揉殺したが、矢鱈《やたら》無性《むしょう》に腹が空いた。」と立ったり、居たり、歩行《ある》いたり、果《はて》は胡坐《あぐら》かいて能代《のしろ》の膳の低いのを、毛脛《けずね》へ引挟《ひっぱさ》むがごとくにして、紫蘇《しそ》の実に糖蝦《あみ》の塩辛《しおから》、畳み鰯《いわし》を小皿にならべて菜ッ葉の漬物|堆《うずたか》く、白々と立つ粥の湯気の中に、真赤《まっか》な顔をして、熱いのを、大きな五郎八茶碗《ごろはちぢゃわん》でさらさらと掻食《かっくら》って、掻食いつつ菊枝が支えかねたらしく夜具に額をあてながら、時々吐息を深くするのを、茶碗の上から流眄《ながしめ》に密《そっ》と見ぬように見て釣込まれて肩で呼吸《いき》。
思出したように急がしく掻込《かっこ》んで、手拭《てぬぐい》の端《はじ》でへの字に皺《しわ》を刻んだ口の端《はた》をぐいと拭《ふ》き、差置いた箸《はし》も持直さず、腕を組んで傾いていたが、台所を見れば引窓から、門口《かどぐち》を見れば戸の透《すき》から、早や九時十時の日ざしである。このあたりこそ気勢《けはい》もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交《ゆきか》い、人通り、烟突《えんとつ》の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一《おんなじ》時刻の
前へ
次へ
全25ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング