、風邪を引くと不可《いけ》ません。」
弥吉は親方の吩咐《いいつけ》に註を入れて、我ながら旨《うま》く言ったと思ったが、それでもなお応じないから、土間の薄暗い中をきょろきょろと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、密《そっ》と、框《かまち》に手をついて、及腰《およびごし》に、高慢な顔色《かおつき》で内を透《すか》し、
「かりん糖でござい、評判のかりん糖!」と節をつけて、
「雨が降ってもかりかりッ、」
どんなものだ、これならば顕《あらわ》れよう、弥吉は菊枝とお縫とが居ない振《ふり》でかつぐのだと思うから、笑い出すか、噴き出すか、くすくす遣《や》るか、叱るかと、ニヤニヤ独《ひとり》で笑いながら、耳を澄《すま》したけれども沙汰《さた》がない、時計の音が一分ずつ柱を刻んで、潮《うしお》の退《ひ》くように鉄瓶の沸《に》え止《や》む響《ひびき》、心着けば人気勢《ひとけはい》がしないのである。
「可笑《おか》しいな、」と独言《ひとりごと》をしたが、念晴しにもう一ツ喚《わめ》いてみた。
「へい、かりん糖でござい。」
それでも寂寞《ひっそり》、気のせいか灯《あかり》も陰気らしく、立ってる土間は暗いから、嚔《くさめ》を仕損なったような変な目色《めつき》で弥吉は飛込んだ時とは打って変り、ちと悄気《しょげ》た形で格子戸を出たが、後を閉めもせず、そのままには帰らないで、溝伝いにちょうど戸外《おもて》に向った六畳の出窓の前へ来て、背後向《うしろむき》に倚《よ》りかかって、前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、ぼんやりする。
がらがらと通ったのは三台ばかりの威勢の可《よ》い腕車《くるま》、中に合乗《あいのり》が一台。
「ええ、驚かしゃあがるな。」と年紀《とし》には肖《に》ない口を利いて、大福餅が食べたそうに懐中《ふところ》に手を入れて、貧乏ゆるぎというのを行《や》る。
処へ入乱れて三四人の跫音《あしおと》、声高にものを言い合いながら、早足で近《ちかづ》いて、江崎の前へ来るとちょっと淀《よど》み、
「どうもお嬢さん難有《ありがと》うございました。」こういったのは豆腐屋の女房《かみさん》で、
「飛んだお手数でしたね。」
「お蔭様だ。」と留《とめ》という紺屋の職人が居る、魚勘《うおかん》の親仁《おやじ》が居る、いずれも口々。
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