五十七の今年二十六年の間、遊女八人の身抜《みぬけ》をさしたと大意張《おおいばり》の腕だから、家作などはわがものにして、三月ばかり前までは、出稼《でかせぎ》の留守を勤め上《あが》りの囲物《かこいもの》、これは洲崎に居た年増《としま》に貸してあったが、その婦人《おんな》は、この夏、弁天町の中通《なかどおり》に一軒|引手茶屋《ひきてぢゃや》の売物があって、買ってもらい、商売をはじめたので空家になり、また貸札でも出そうかという処へ娘のお縫。母親の富とは大違いな殊勝な心懸《こころがけ》、自分の望みで大学病院で仕上げ、今では町|住居《ずまい》の看護婦、身綺麗《みぎれい》で、容色《きりょう》も佳《よ》くって、ものが出来て、深切で、優《おとな》しいので、寸暇のない処を、近ごろかの尾上家に頼まれて、橘之助の病蓐《びょうじょく》に附添って、息を引き取るまで世話をしたが、多分の礼も手に入るる、山そだちは山とか、ちと看病|疲《づかれ》も出たので、しばらく保養をすることにして帰って来て、ちょうど留守へ入って独《ひとり》で居る。菊枝は前の囲者が居た時分から、縁あってちょいちょい遊びに行ったが、今のお縫になっても相変らず、……きっとだと、両親《ふたおや》が指図で、小僧兼内弟子の弥吉《やきち》というのを迎《むかい》に出すことにした。
「菊枝が毎度出ましてお邪魔様でございます、難有《ありがと》う存じます。それから菊枝に、病気揚句だ、夜更《よふか》しをしては宜《よ》くないからお帰りと、こう言うのだ。汝《てめえ》またかりん糖の仮色《こわいろ》を使って口上を忘れるな。」
 坐睡《いねむり》をしていたのか、寝惚面《ねぼけづら》で承るとむっくと立ち、おっと合点お茶の子で飛出した。
 わっしょいわっしょいと謂《い》う内に駆けつけて、
「今晩は。」というと江崎が家の格子戸をがらりと開けて、
「今晩は。」
 時に返事をしなかった、上框《あがりがまち》の障子は一枚左の方へ開けてある。取附《とッつき》が三畳、次の間《ま》に灯《あかり》は点《つ》いていた、弥吉は土間の処へ突立《つった》って、委細構わず、
「へい毎度出ましてお邪魔様でございます、難有《ありがと》う存じます。ええ、菊枝さん、姉さん。」

       二

「菊枝さん、」とまた呼んだが、誰も返事をするものがない。
 立続けに、
「遅いからもうお帰りなさいまし
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