これがためであった。斧と琴と菊模様の浴衣こそ菊枝をして身を殺さしめた怪しの衣《きぬ》、女《むすめ》が歌舞伎の舞台でしばしば姿を見て寐覚《ねざめ》にも俤《おもかげ》の忘られぬ、あこがるるばかり贔屓《ひいき》の俳優《やくしゃ》、尾上橘之助が、白菊の辞世を読んだ時まで、寝返りもままならぬ、病《やまい》の床に肌につけた記念《かたみ》なのである。
江崎のお縫は芳原の新造《しんぞ》の女《むすめ》であるが、心懸《こころがけ》がよくッて望んで看護婦になったくらいだけれども、橘之助に附添って嬉しくないことも無いのであった。
しかるに重体の死に瀕《ひん》した一日、橘之助が一輪ざしに菊の花を活《い》けたのを枕頭《まくらもと》に引寄せて、かつてやんごとなき某《なにがし》侯爵夫人から領したという、浅緑《あさみどり》と名のある名香《めいこう》を、お縫の手で焚《た》いてもらい、天井から釣《つる》した氷嚢《ひょうのう》を取除《とりの》けて、空気枕に仰向けに寝た、素顔は舞台のそれよりも美しく、蒲団《ふとん》も掻巻《かいまき》も真白《まっしろ》な布をもって蔽《おお》える中に、目のふちのやや蒼《あお》ざめながら、額にかかる髪の艶《つや》、あわれうらわかき神のまぼろしが梨園を消えようとする時の風情。
十三
橘之助は垢《あか》の着かない綺麗な手を胸に置いて、香《こう》の薫《かおり》を聞いていたが、一縷《いちる》の煙は二条《ふたすじ》に細く分れ、尖《さき》がささ波のようにひらひらと、靡《なび》いて枕に懸《かか》った時、白菊の方に枕を返して横になって、弱々しゅう襟を左右に開いたのを、どうなさいます? とお縫が尋ねると、勿体ないが汗臭いから焚《た》き占めましょう、と病苦の中に謂《い》ったという、香の名残《なごり》を留めたのが、すなわちここに在る記念《かたみ》の浴衣。
懐しくも床《ゆかし》さに、お縫は死骸の身に絡《まと》った殊にそれが肺結核の患者であったのを、心得ある看護婦でありながら、記念《かたみ》にと謂って強いて貰い受けて来て葛籠《つづら》の底深く秘め置いたが、菊枝がかねて橘之助|贔屓《びいき》で、番附に記した名ばかり見ても顔色を変える騒《さわぎ》を知ってたので、昨夜、不動様の参詣《さんけい》の帰りがけ、年紀《とし》下ながら仲よしの、姉さんお内かい、と寄った折も、何は差置き橘之助の噂《
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