》な姉さんが台なしになったぞ。あてこともねえ、どうじゃ、切ないかい、どこぞ痛みはせぬか、お肚《なか》は苦しゅうないか。」と自分の胸を頑固な握拳《にぎりこぶし》でこツこツと叩いて見せる。
 ト可愛らしく、口を結んだまま、ようようこの時|頭《かぶり》を振った。
「は、は、痛かあない、宜《い》いな、嬉しいな、可《よ》し、可し、そりゃこうじゃて。お前《めえ》、飛込んだ拍子に突然《いきなり》目でも廻したか、いや、水も少しばかり、丼に一杯吐いたか吐かぬじゃ。大したことはねえての、気さえ確《たしか》になれば整然《ちゃん》と治る。それからの、ここは大事ない処じゃ、婆《ばば》も猫も犬も居《お》らぬ、私《わし》一人じゃから安心をさっしゃい。またどんな仔細《しさい》がないとも限らぬが、少しも気遣《きづかい》はない、無理に助けられたと思うと気が揉《も》めるわ、自然天然と活返《いきかえ》ったとこうするだ。可いか、活返ったら夢と思って、目が覚めたら、」といいかけて、品のある涼しい目をまた凝視《みつ》め、
「これさ、もう夜があけたから夢ではない。」

       十一

 しばらくして菊枝が細い声、
「もし」
「や、産声《うぶごえ》を挙げたわ、さあ、安産、安産。」と嬉しそうに乗出して膝を叩く。しばらくして、
「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く。
 七兵衛は笑傾《えみかたむ》け、
「旨《うま》いな、涙が出ればこっちのものだ、姉《ねえ》や、ちっとは落着いたか、気が静まったか。」
「ここはどっちでしょう。」
「むむ、ここはな、むむ、」と独《ひとり》でほくほく。
「散々気を揉《も》んでお前《めえ》、ようようこっちのものだと思うと、何を言ってもただもうわなわな震えるばっかりで。弱らせ抜いたぜ。そっちから尋ねるようになれば占めたものだ。ここは佃町よ、八幡様の前を素直《まっすぐ》に蓬莱橋を渡って、広ッ場《ぱ》を越した処だ、可《い》いか、私《わし》は早船の船頭で七兵衛と謂《い》うのだ。」
「あの蓬莱橋を渡って、おや、そう、」と考える。
「そうよ、知ってるか、姉やは近所かい。」
「はい。……いいえ、」といってフト口をつぐんだ。船頭は胸で合点《がってん》して、
「まあ、可いや、お前《めえ》の許《とこ》は構わねえ、お前の方にさえ分れば可いわ、佃町を知っているかい。」
 ややあって、
「あの、いつか通った時
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