出入るものにつけても、両親は派手好《はでずき》なり、殊に贔屓俳優《ひいきやくしゃ》の橘之助の死んだことを聞いてから、始終くよくよして、しばらく煩ってまでいたのが、その日は誕生日で、気分も平日《いつ》になく好《い》いというので、髪も結って一枚着換えて出たのであった。
 小町下駄は、お縫が許《とこ》の上框《あがりがまち》の内に脱いだままで居なくなったのであるから、身を投げた時は跣足《はだし》であった。
 履物が無かったばかり、髪も壊れず七兵衛が船に助けられて、夜《よ》があけると、その扱帯もその帯留も、お納戸の袷も、萌黄と緋の板締《いたじめ》の帯も、荒縄に色を乱して、一つも残らず、七兵衛が台所にずらりと懸《かか》って未《いま》だ雫《しずく》も留まらないで、引窓から朝霧の立ち籠《こ》む中に、しとしとと落ちて、一面に朽ちた板敷を濡《ぬら》しているのは潮の名残《なごり》。
 可惜《あたら》、鼓のしらべの緒にでも干す事か、縄をもって一方から引窓の紐にかけ渡したのは無慙《むざん》であるが、親仁《おやじ》が心は優しかった。
 引窓を開けたばかりわざと勝手の戸も開けず、門口《かどぐち》も閉めたままで、鍋《なべ》をかけた七輪の下を煽《あお》ぎながら、大入だの、暦《こよみ》だの、姉さんだのを張交ぜにした二枚折の枕屏風《まくらびょうぶ》の中を横から振向いて覗《のぞ》き込み、
「姉《ねえ》や、気分はどうじゃの、少し何かが解《わか》って来たか、」
 と的面《まとも》にこっちを向いて、眉の優しい生際《はえぎわ》の濃い、鼻筋の通ったのが、何も思わないような、しかも限りなき思《おもい》を籠めた鈴のような目を瞠《みは》って、瓜核形《うりざねなり》の顔ばかり出して寝ているのを視《なが》めて、大口を開《あ》いて、
「あはは、あんな顔をして罪のない、まだ夢じゃと思うそうだ。」
 菊枝は、硫黄《いおう》ヶ島の若布《わかめ》のごとき襤褸蒲団《ぼろぶとん》にくるまって、抜綿《ぬきわた》の丸《まろ》げたのを枕にしている、これさえじかづけであるのに、親仁が水でも吐《はか》したせいか、船へ上げられた時よりは髪がひっ潰《つぶ》れて、今もびっしょりで哀《あわれ》である、昨夜《ゆうべ》はこの雫の垂るる下で、死際の蟋蟀《きりぎりす》が鳴いていた。
 七兵衛はなおしおらしい目から笑《えみ》を溢《こぼ》して、
「やれやれ綺麗《きれい
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