驚いて猿臂《えんぴ》を伸《のば》し、親仁《おやじ》は仰向《あおむ》いて鼻筋に皺《しわ》を寄せつつ、首尾よく肩のあたりへ押廻して、手を潜《くぐ》らし、掻い込んで、ずぶずぶと流《ながれ》を切って引上げると、びっしょり舷へ胸をのせて、俯向《うつむ》けになったのは、形も崩れぬ美しい結綿《ゆいわた》の島田|髷《まげ》。身を投げて程も無いか、花がけにした鹿《か》の子の切《きれ》も、沙魚《はぜ》の口へ啣《くは》え去られないで、解《ほど》けて頸《うなじ》から頬の処へ、血が流れたようにベッとりとついている。
親仁は流に攫《さら》われまいと、両手で、その死体の半《なかば》はいまだ水に漂っているのをしっかり押えながら、わなわなと震えて早口に経を唱えた。
けれどもこれは恐れたのでも驚いたのでもなかったのである。助かるすべもありそうな、見た処の一枝の花を、いざ船に載せて見て、咽喉《のど》を突かれてでも、居はしまいか、鳩尾《みずおち》に斬《き》ったあとでもあるまいか、ふと愛惜《あいじゃく》の念|盛《さかん》に、望《のぞみ》の糸に縋《すが》りついたから、危ぶんで、七兵衛は胸が轟《とどろ》いて、慈悲の外何の色をも交えぬ老《おい》の眼《まなこ》は塞《ふさ》いだ。
またもや念ずる法華経の偈《げ》の一節《ひとふし》。
やがて曇った夜の色を浴びながら満水して濁った川は、どんと船を突上げたばかりで、忘れたようにその犠《にえ》を七兵衛の手に残して、何事もなく流れ流るる。
衣の雫
十
待乳屋の娘菊枝は、不動の縁日にといって内を出た時、沢山ある髪を結綿《ゆいわた》に結っていた、角絞《つのしぼ》りの鹿《か》の子の切《きれ》、浅葱《あさぎ》と赤と二筋を花がけにしてこれが昼過ぎに出来たので、衣服《きもの》は薄お納戸の棒縞《ぼうじま》糸織の袷《あわせ》、薄紫の裾《すそ》廻し、唐繻子《とうじゅす》の襟を掛《かけ》て、赤地に白菊の半襟、緋鹿《ひが》の子の腰巻、朱鷺色《ときいろ》の扱帯《しごき》をきりきりと巻いて、萌黄繻子《もえぎじゅす》と緋の板じめ縮緬《ちりめん》を打合せの帯、結目《むすびめ》を小さく、心《しん》を入れないで帯上《おびあげ》は赤の菊五郎格子、帯留《おびどめ》も赤と紫との打交ぜ、素足に小町下駄を穿《は》いてからからと家《うち》を。
一体|三味線《さみせん》屋で、家業柄
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