って漂々然。

       九

 蓬莱橋は早や見える、折から月に薄雲がかかったので、野も川も、船頭と船とを淡く残して一面に白み渡った、水の色は殊にやや濁《にごり》を帯びたが、果《はて》もなく洋々として大河のごとく、七兵衛はさながら棲息《せいそく》して呼吸するもののない、月世界の海を渡るに斉《ひと》しい。
「妙法蓮華経如来寿量品。」と繰返したが、聞くものの魂が舷《ふなばた》のあたりにさまようような、ものの怪《け》が絡《まつわ》ったか。烏が二声ばかり啼《な》いて通った。七兵衛は空を仰いで、
「曇って来た、雨返しがありそうだな、自我得仏来所経、」となだらかにまた頓着《とんじゃく》しない、すべてのものを忘れたという音調で誦《じゅ》するのである。
 船は水面を横に波状動を起して、急に烈《はげ》しく揺れた。
 読経をはたと留め、
「やあ、やあ、かしが、」と呟《つぶや》きざま艫《とも》を左へ漕《こ》ぎ開くと、二条《ふたすじ》糸を引いて斜《ななめ》に描かれたのは電《いなづま》の裾《すそ》に似たる綾《あや》である。
 七兵衛は腰を撓《た》めて、突立《つった》って、逸疾《いちはや》く一間ばかり遣違《やりちが》えに川下へ流したのを、振返ってじっと瞶《みつ》め、
「お客様だぜ、待て、妙法蓮華経如来寿量品第十六。」と忙《せわ》しく張上げて念じながら、舳《へさき》を輪なりに辷《すべ》らして中流で逆に戻して、一息ぐいと入れると、小波《さざなみ》を打乱す薄月に影あるものが近《ちかづ》いて、やがて舷にすれすれになった。
 飛下りて、胴の間に膝をついて、白髪天頭《しらがあたま》を左右に振ったが、突然《いきなり》水中へ手を入れると、朦朧《もうろう》として白く、人の寝姿に水の懸《かか》ったのが、一|揺《ゆれ》静《しずか》に揺れて、落着いて二三尺離れて流れる、途端に思うさま半身を乗出したので反対の側なる舷へざぶりと一波《ひとなみ》浴《あび》せたが、あわよく手先がかかったから、船は人とともに寄って死骸に密接することになった。
 無意識に今|掴《つか》んだのは、ちょうど折曲げた真白《まっしろ》の肱《ひじ》の、鍵形《かぎなり》に曲った処だったので、
「しゃっちこばッたな、こいつあ日なしだ。」
 とそのまま乱暴に引上げようとすると、少しく水を放れたのが、柔かに伸びそうな手答《てごたえ》があった。
「どッこい。」
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