に尋常に会釈して、
「誰方《どなた》?……」
 と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐《やまふところ》から、頭《つむり》へ浴びせて、大きな声で、
「何か、用か。」と喚《わめ》いた。
「失礼!」
 と言う、頸首《えりくび》を、空から天狗《てんぐ》に引掴《ひッつか》まるる心地がして、
「通道《とおりみち》ではなかったんですか、失礼しました、失礼でした。」
 ――それからは……寺までも行《ゆ》き得ない。

       五

 人は何とも言わば言え……
 で渠《かれ》に取っては、花のその一里《ひとさと》が、所謂《いわゆる》、雲井桜の仙境であった。たとえば大空なる紅《くれない》の霞に乗って、あまつさえその美しいぬし[#「ぬし」に傍点]を視《み》たのであるから。
 町を行《ゆ》くにも、気の怯《ひ》けるまで、郷里にうらぶれた渠が身に、――誰も知るまい、――ただ一人、秘密の境を探り得たのは、潜《ひそか》に大《おおい》なる誇りであった。
 が、ものの本の中《うち》に、同じような場面を読み、絵の面《おもて》に、そうした色彩に対しても、自《おのず》から面《おもて》の赤うなる年紀《とし》である。
 祖母《としより》の傍《そば》でも、小さな弟と一所でも、胸に思うのも憚《はばか》られる。……寝て一人の時さえ、夜着の袖を被《かぶ》らなければ、心に描くのが後暗《うしろめた》い。……
 ――それを、この機会に、並木の松蔭に取出でて、深秘なるあが仏を、人待石に、密《ひそか》に据えようとしたのである。
 成りたけ、人勢《ひとけ》に遠ざかって、茶店に離れたのに不思議はあるまい。
 その癖、傍《はた》で視《み》ると、渠が目に彩り、心に映した――あの※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた娘の姿を、そのまま取出して、巨石《おおいし》の床に据えた処は、松並木へ店を開いて、藤娘の絵を売るか、普賢菩薩《ふげんぼさつ》の勧進をするような光景であった。
 渠は、空《くう》に恍惚《うっとり》と瞳を据えた。が、余りに憧《あこが》るる煩悩は、かえって行澄《おこないす》ましたもののごとく、容《かたち》も心も涼しそうで、紺絣《こんがすり》さえ松葉の散った墨染の法衣《ころも》に見える。
 時に、吸ったのが悪いように、煙を手で払って、叺《かます》の煙草入を懐中《ふところ》へ蔵《しま》う
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