《みち》は、飛々《とびとび》の草鞋のあと、まばらの馬の沓《くつ》の形《かた》を、そのまま印して、乱れた亀甲形《きっこうがた》に白く乾いた。それにも、人の往来《ゆきき》の疎《まばら》なのが知れて、隈《くま》なき日当りが寂寞《ひっそり》して、薄甘く暖い。
怪しき臭気《におい》、得《え》ならぬものを蔽《おお》うた、藁《わら》も蓆《むしろ》も、早や路傍《みちばた》に露骨《あらわ》ながら、そこには菫《すみれ》の濃いのが咲いて、淡《うす》いのが草まじりに、はらはらと数に乱れる。
馬の沓形《くつがた》の畠やや中窪《なかくぼ》なのが一面、青麦に菜を添え、紫雲英を畔《くろ》に敷いている。……真向うは、この辺一帯に赤土山の兀《は》げた中に、ひとり薄萌黄《うすもえぎ》に包まれた、土佐絵に似た峰である。
と、この一廓《ひとくるわ》の、徽章《きしょう》とも言《いっ》つべく、峰の簪《かざし》にも似て、あたかも紅玉を鏤《ちりば》めて陽炎《かげろう》の箔《はく》を置いた状《さま》に真紅に咲静まったのは、一株の桃であった。
綺麗さも凄《すご》かった。すらすらと呼吸《いき》をする、その陽炎にものを言って、笑っているようである。
真赤《まっか》な蛇が居ようも知れぬ。
が、渠《かれ》の身に取っては、食に尽きて倒るるより、自然《ひとりで》に死ぬなら、蛇に巻かれたのが本望であったかも知れぬ。
袂《たもと》に近い菜の花に、白い蝶が来て誘う。
ああ、いや、白い蛇であろう。
その桃に向って、行《ゆ》きざまに、ふと見ると、墓地《はかち》の上に、妙見宮の棟の見ゆる山へ続く森の裏は、山際から崕上《がけうえ》を彩って――はじめて知った――一面の桜である。……人は知るまい……一面の桜である。
行《ゆ》くに従うて、路は、奥拡がりにぐるりと山の根を伝う。その袂にも桜が充《み》ちた。
しばらく、青麦の畠になって、紫雲英で輪取る。畔づたいに廻りながら、やがて端へ出て、横向に桃を見ると、その樹のあたりから路が坂に低くなる、両方は、飛々|差覗《さしのぞ》く、小屋、藁屋を、屋根から埋《うず》むばかり底広がりに奥を蔽《おお》うて、見尽されない桜であった。
余りの思いがけなさに、渠は寂然《じゃくねん》たる春昼をただ一人、花に吸われて消えそうに立った。
その日は、何事もなかった――もとの墓地を抜けて帰った――ものに憑《
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