所へ、破戒坊主が、はい蹲《つくば》ったという体で、可恐《おそろ》し可恐し、地蔵様の前に踞《しゃが》んで、こう、伏拝む形《なり》をして、密《そっ》と視たんで。
先生は更《あらた》めて、両手を卓子につき直して、
「――受信人、……狼温泉二葉屋方、村上縫子、発信人は尊名、貴姓であります。
コンニチゴゴツク。ヨウイ(今日午後着く。用意)」
と聞きも済まさず、若い紳士《だんな》は、斜《ななめ》に衝《つ》と開いて、身構えて、
(何、私信を見た上、用件を御承知になりましたな。)
「偏《ひとえ》に申訳をいたします。電報を扱います節、文字《もんじ》は拾いますが、文字は普通……拾いますが、職務の徳義として、文字は綴りましても、用件は記憶しません。しかるところ、唯今申上げました(コンニチゴゴツク、ヨウイ)で、不意に故障が起りました、幾度も接続を試みますうちに、うかと記憶に残ったのです。のち四時間、やっと電線が恢復《かいふく》して(ヨキカ)と受信しましたのです。謹んで謝罪いたします。」
と面《おもて》を上げ、乾《から》びた咳《せき》して、
「すなわち、受信人、狼温泉、二葉屋方、村上縫子。発信人、尊名、貴姓、すなわち、(今日午後着く。用意よきか。)」
(分りました。)
と静《しずか》に言う時、ふと見返った目が、私《わっし》に向いた、と一所にな……先生の眼《まなこ》も光りました。
怯《おび》えて立ったね、悚然《ぞっと》した。
荷を担いで、ひょうろ、ひょろ。
ようやく石段の中ほどで、吻《ほっ》と息をして立った処が、薄暮合《うすくれあい》の山の凄《すご》さ。……天秤かついだ己《うぬ》が形《なり》が、何でございますかね、天狗様の下男が清水を汲みに山一つ彼方《あなた》へといった体《てい》で、我ながら、余り世間離れがした心細さに、
(ほっ、)
と云ったが、声も、ふやける。肩をかえて性根だめしに、そこで一つ……
(鋳掛――錠前の直し。)――
何と――旦那。」
九
「……時に――雪の松明《たいまつ》が二|把《わ》。前後《あとさき》に次第に高くなって、白い梟《ふくろ》、化梟、蔦葛《つたかずら》が鳥の毛に見えます、その石段を攀《よ》じるのは、まるで幻影《まぼろし》の女体が捧げて、頂の松、電信柱へ、竜燈が上《あが》るんでございました。
上り果てた時分には、もう降っているのが止《や》みましたっけ。根雪に残るのじゃあございません、ほんの前触れで、一きよめ白くしましたので、ぼっとほの白く、薄鼠に、梟の頂が暗夜《やみ》に浮いて見えました。
苦しい時ばかりじゃあねえ。こんな時も神頼み、で、私《わっし》は崖縁《がけぶち》をひょいと横へ切れて、のしこと地蔵様の背後《うしろ》に蹲《しゃが》み込んで覗《のぞ》いたんで。石像のお袈裟《けさ》の前へは、真白《まっしろ》に吹掛けましたが、うしろは苔《こけ》のお法衣《ころも》のまま真黒《まっくろ》で、お顔が青うございましたよ。
大方いまの雪のために、先生も、客人も、天幕に引籠《ひきこも》ったんでございましょう。卓子《テエブル》ばかりで影もない。野天のその卓子が、雪で、それ大理石。――立派やかなお座敷にも似合わねえ、安火鉢の曲《ゆが》んだやつが転がるように出ていました。
その火鉢へ、二人が炬火《たいまつ》をさし込みましたわ。一ふさり臥《ふさ》って、柱のように根を持って、赫《かっ》と燃えます。その灯《あかり》で、早や出端《でばな》に立って出かかった先生方、左右の形は、天幕がそのままの巌石《がんせき》で、言わねえ事じゃあねえ、青くまた朱に刻みつけた、怪しい山神《さんじん》に、そっくりだね。
ツツとあとへ引いて、若い紳士《だんな》が、卓子に、さきの席を取って、高島田の天人を、
(縫子さん。)
と呼びました。
御婦人が、髪の吹流《ふきながし》を取った、気高い顔は、松明の火に活々《いきいき》と、その手拭で、お召のコオトの雪を払っていなすったけ、揺れて山茶花《さざんか》が散るようだ。
(立野さんに御挨拶をなさい。)
(唯今。)
と静《しずか》に言って、例の背後《せなか》に掛けた竹の子笠を、紐を解いて、取りましたが、吹添って、風はあるのに、気で鎮めたかして、その笠が動きもしません。
卓子の脚に、お道さんのと重ねて置いて、
(貴方《あなた》――御機嫌よう。)
(は。)
と先生は一言云ったきり、顔も上げないで、めり込むように深く卓子の端についた太い腕が震えたが、それより深いのは、若旦那の方の年紀《とし》とも言わない額に刻んだ幾筋かの皺《しわ》で、短く一分刈かと見える頭《つぶり》は、坊さんのようで、福々しく耳の押立《おった》って大《おおき》いのに、引締った口が窪んで、大きく見えるまで、げっそりと頬の肉が落ちている。
(夫人《おくさん》。)
と先生はうつむいたままで、
(再び、御機嫌のお顔を拝することを得まして、私《わたくし》一代の本懐です。生れつきの口不調法が、かく眼前《まのあたり》に、貴方のお姿に対しましては、何も申上げる言《ことば》を覚えません、ただしかし、唯今。)
と、よろめいて立って、椅子の手に縋《すが》りました。
(唯今、一言《ひとこと》御挨拶を申上げます。)
と天幕に入ると、提げて出た、卓子を引抱《ひっかか》えたようなものではない、千|仭《じん》の重さに堪えない体《てい》に、大革鞄を持った胸が、吐呼吸《といき》を浪に吐《つ》く。
それと見ると、簑《みの》を絞って棄てました、お道さんが手を添えながら、顔を見ながら、搦《から》んで、縺《もつ》れて、うっかりしたように手伝う姿は、かえって、あの、紫の片袖に魂が入って、革鞄を抜けたように見えました。
ずしりと、卓子の上に置くと、……先生は一足|退《さが》って、起立の形《なり》で、
(もはや、お二方に対しましては、……御夫婦に向いましては、立って身を支えるにも堪えません、一刻も早くこの人畜《にんちく》の行為《おこない》に対する、御制裁を待ちます。即時に御処分のほどを願います。)
若旦那が、
(よろしいか。)
とちと甘いほどな、この場合優しい声で、御夫人に言いました。
(はい。)
と、若奥様は潔い。
若旦那はまっすぐに立直って、
(立野さん。)
(…………)
(では、御要求をいたします。)
(謹んで承ります、一点といえども相背きはいたしますまい。)
(そこに、卓子の上に横にお置きなさいました、革鞄を、縦にまっすぐにお直し下さい。)
(承知いたしました――いやいや罪人の手伝をしては、お道さん、汚《けが》れるぞ。)
と手伝を払って、しっかとその処へ据直す。
(立野さん。貴下《あなた》は革鞄の全形と折重《おりかさな》って、その容量を外れない範囲内にお立ち下さい。縫子が私の妻として、婚礼の日の途中、汽車の中で。)
と云う声が少し震えました。
(貴下に、その紫の袖を許しました、その責《せめ》に任ずるために、ここに短銃《ピストル》を所持しております、――その短銃をもってここに居て革鞄を打ちます。弾丸をもって錠前を射切《いき》るのです。錠前を射切《うちき》って、その片袖を――同棲三年間――まだ純真なる処女の身にして、私のために取返すんです。袖が返るとともに、更《あらた》めて結婚します。夫婦になります。が、勿論しかし、それが夫婦のものの、身の終結になるかも分りません。なぜと云うに、革鞄と同時に、兇器をもって貴下のお身体《からだ》に向うのです。万一お生命《いのち》を縮めるとなれば、私はその罪を負わねばならないのですから。それは勿論覚悟の前です……お察し下さい、これはほとんど私が生命を忘れ、世間を忘れ、甚しきは一|人《にん》の親をも忘れるまで、寝食を廃しまして、熟慮反省を重ねた上の決意なのです。はじめは貴方が、当時汽車の窓から赤城山の絶頂に向って御投棄てになったという、革鞄の鍵を、何《なん》とぞして、拾い戻して、その鍵を持ちながらお目にかかって、貴下の手から錠を解いて、縫のその袖を返して頂きたいと存じ、およそ半年、百日に亙《わた》りまして、狂と言われ、痴と言われ、愚と言われ、嫉妬《しっと》と言われ、じんすけと嘲《あざ》けられつつも、多勢《たぜい》の人数を狩集《かりあつ》めて、あの辺の汽車の沿道一帯を、粟《あわ》、蕎麦《そば》、稲を買求めて、草に刈り、芥《あくた》にむしり、甚しきは古塚の横穴を発《あば》いてまで、捜させました。流星のごとく天際に消えたのでしょう、一点似た釘も見当りません。――唯今……要求しますのは、その後《のち》の決心である事を諒《りょう》として下さいまし。縫もよくこの意を体して、三年の間、昼夜を分かず、的を射る修錬をいたしました。――最初、的をつくります時、縫がものさしを取って、革鞄の寸法を的に切りましたが、ここで実物を拝見しますと、その大《おおき》さと言い、錠前のある位置と言い、ほとんど寸分の違いもありません。……不思議です。……特に奇蹟と存じますのは、――家の地続きを劃《しき》って、的場を建てましたのですが、土地の様子、景色、一本の松の形、地蔵のあるまで。)
――私《わっし》はすくんだね――
(夢のようによく似ています。……多分、皆お互に、こうした運命だと存じます。……短銃《ピストル》は特に外国に註文して、英国製の最優良なのを取寄せました。連発ですが、弾丸はただ一つしか籠《こ》めてありません、きっと仕損じますまい。しかし、御覚悟を下さいまし。――もっとも革鞄と重《かさな》ってお立ち下さいますのに、その間隔は、五|間《けん》、十間、あるいは百間、三百間、貴下《あなた》の、お心に任せます。要はただ、着弾距離をお離れになりません事です。)
(一歩もここを動きません。)
先生は、拱《こまぬ》いた腕を解いて言いましたぜ。」
――そうだろうと、私たちも思ったのである。
十
「堪《たま》らねえやね。お前さん。
私《わっし》あ猿坊《えてんぼ》のように、ちょろりと影を畝《うね》って這出《はいだ》して、そこに震えて立っている、お道姉さんの手に合鍵を押《おッ》つけた。早く早く、と口じゃあ言わねえが、袖を突いた。
――若奥様の手が、もう懐中《ふところ》に入った時でございますよ。
(御免遊ばせ。)
と縋《すが》りつくように、伸上って、お道さんが鍵を合せ合せするのが、あせるから、ツルツルと二三度|辷《すべ》りました。
(ああ、ちょっと。)
と若奥様が、手で圧《おさ》えて、
(どうぞ……そればかりは。)
と清《すず》しく言います。この手二つが触ったものを、錠前の奴、がんとして、雪になっても消えなんだ。
舌の硬《こわ》ばったような先生が、
(飛んでもない事――お道さん。)
(いいえ、構いません。)
と若旦那はきっぱりと、
(飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。貴下《あなた》が御自分でなくっても、貴下が許して、錠前をさえお開き下さるなら――方法は択《えら》びません。短銃《ピストル》なんぞ何になりましょう、私はそれで満足します。)
(旦那様。)
と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量の思《おもい》の目を凝らした。
(はあ、)
と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。
(貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、姉《ねえ》さん、……お優しい、お美しい姉さんに、貴方はもうお心が移りましたか。)
と云って、若奥様が熟《じっ》と視《み》ました。
先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除《おしの》けながら、
(これは余所《よそ》の娘です、あわれな孤児《みなしご》です。)
とあとが消えた。
(決行なさい、縫子。)
(…………)
(打て、お打ちなさい。)
(唯今。)
と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。煽《あお》りもせぬのに気が立って、颯《さっ》と火の上る松明《たいまつ》より、紅《くれない》に燃立つばかり、緋
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