唄立山心中一曲
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)松明《たいまつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)信州|姨捨《おばすて》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「けものへん+葛」、第3水準1−87−81]子鳥《あとり》
−−
一
「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明《たいまつ》がぱっと燃えながら二本――誰も言うことでございますが、他《ほか》にいたし方もありませんや。真白《まっしろ》な手が二つ、悚然《ぞっ》とするほどな婦《おんな》が二人……もうやがてそこら一面に薄《うっす》り白くなった上を、静《しずか》に通って行《ゆ》くのでございます。正体は知れていても、何しろそれに、所が山奥でございましょう。どうもね、余り美しくって物凄《ものすご》うございました。」
と鋳掛屋《いかけや》が私たちに話した。
いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと唐突《だしぬけ》に過ぎる。知己《ちかづき》になってこの話を聞いた場所と、そのいきさつをちょっと申陳《もうしの》べる。けれども、肝心な雪女郎と山姫が長襦袢《ながじゅばん》で顕《あらわ》れたようなお話で、少くとも御覧の方はさきをお急ぎ下さるであろうと思う、で、簡単にその次第を申上げる。
所は信州|姨捨《おばすて》の薄暗い饂飩屋《うどんや》の二階であった。――饂飩屋さえ、のっけに薄暗いと申出るほどであるから、夜の山の暗い事思うべしで。……その癖、可笑《おかし》いのは、私たちは月を見ると言って出掛けたのである。
別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時の連《つれ》は小村雪岱《こむらせったい》さんで、双方あちらこちらの都合上、日取が思う壺《つぼ》にはならないで、十一月の上旬、潤年《うるうどし》の順におくれた十三夜の、それも四日ばかり過ぎた日の事であった。
――居待月である。
一杯飲んでいる内には、木賊《とくさ》刈るという歌のまま、研《みが》かれ出《い》づる秋の夜《よ》の月となるであろうと、その気で篠《しの》ノ井で汽車を乗替えた。が、日の短い頃であるから、五時そこそこというのにもうとっぷりと日が暮れて、間は稲荷山《いなりやま》ただ一丁場《ひとちょうば》だけれども、線路が上りで、進行が緩い処へ、乗客が急に少く、二人三人と数えるばかり、大《おおき》な木の葉がぱらりと落ちたようであるから、掻合《かきあ》わす外套《がいとう》の袖《そで》も、妙にばさばさと音がする。外は霜であろう。山の深さも身に沁《し》みる。夜《よ》さえそぞろに更け行くように思われた。
「来ましたよ。」
「二人きりですね。」
と私は言った。
名にし負う月の名所である。ここの停車場《ステエション》を、月の劇場の木戸口ぐらいな心得違いをしていた私たちは、幟《のぼり》や万燈《まんどう》には及ばずとも、屋号をかいた弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》で、へい、茗荷屋《みょうがや》でございます、旅店の案内者ぐらいは出ていようと思ったの大きな見当|違《ちがい》。絵に描《か》いた木曾の桟橋《かけはし》を想わせる、断崖《がけ》の丸木橋のようなプラットフォームへ、しかも下りたのはただ二人で、改札口へ渡るべき橋もない。
一人がバスケットと、一人が一升|壜《びん》を下げて、月はなけれど敷板の霜に寒い影を映しながら、あちらへ行《ゆ》き、こちらへ戻り、で、小村さんが唇をちょっと曲げて、
「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」
「成程。線路を突切《つっき》って行く仕掛けなんです。」
やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、颯《さっ》と屋根へ掛《かか》る中を、汽車は音もしないように静《しずか》に動き出す、と漆《うるし》のごとき真暗《まっくら》な谷底へ、轟《ごう》と谺《こだま》する……
「行っていらっしゃいまし……お静《しずか》に――」
と私はつい、目の前《さき》をすれすれに行く、冷たそうに曇った汽車の窓の灯《あかり》に挨拶《あいさつ》した。ここへ二人きり置いて行かれるのが、山へ棄《す》てられるような気がして心細かったからである。
壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧の裡《なか》なる線路を渡った。
「ちょっと、伺いますが。」
「はあ?」
手ランプを提げた、真黒《まっくろ》な扮装《いでたち》の、年の少《わか》い改札|掛《がかり》わずかに一人《いちにん》。
待合所の腰掛の隅には、頭から毛布《けっと》を被《かぶ》ったのが、それもただ一人居る。……これが伊勢だと、あすこを狙《ねら》って吹矢を一本――と何も不平を言うのではない、旅の秋を覚えたので。――小村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖か巌《いわ》を滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。
「その辺に旅籠屋《はたごや》はありましょうか。」
「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約|半道《はんみち》ばかり行《ゆ》きますと、湯の立つ家があるですよ。外《ほか》は大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」
「あの風呂を沸かしますのが。」
「さよう。」
「難有《ありがと》う――少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」
と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、
「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……何《なん》しろ暗い。」
と構内の柵について……灯《ともしび》の百合《ゆり》が咲く、大《おおき》な峰、広い谷に、はらはらとある灯《ひ》をたよりに、ものの十|間《けん》とは進まないで、口を開けて足を噛《か》む狼《おおかみ》のような巌《いわ》の径《こみち》に行悩んだ。
「どうです、いっそここへ蹲《しゃが》んで、壜詰《びんづめ》の口を開けようじゃありませんか。」
「まさか。」
と小村さんは苦笑して、
「姨捨山、田毎《たごと》の月ともあろうものが、こんな路《みち》で澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場《ステエション》の裏の方へ戻ってみましょう。いくらか燈《あかり》が見えるようです。」
双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場《ステエション》には早や駅員の影も見えぬ。毛布《けっと》かぶりの痩《や》せた達磨《だるま》の目ばかりが晃々《きらきら》と光って、今度はどうやら羅漢に見える。
と停車場《ステエション》の後《うしろ》は、突然《いきなり》荒寺の裏へ入った形で、芬《ぷん》と身に沁《し》みる木《こ》の葉の匂《におい》、鳥の羽で撫《な》でられるように、さらさらと――袖が鳴った。
落葉を透かして、山懐《やまふところ》の小高い処に、まだ戸を鎖《さ》さない灯《あかり》が見えた。
小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、
「きっと飲ませますよ、この戸の工合《ぐあい》が気に入りました」
と勢《いきおい》よく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、
「退却……」
「え、安達《あだち》ヶ原ですか。」
と聞く方が慌てている。
「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋《わらじ》を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚《わめ》くんです。」
「いや、それは恐縮々々。」
「まことに済みません。発起人がこの様子で。」
「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込《ひっこ》むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、……
[#ここから6字下げ]
わが心なぐさめかねつ更科《さらしな》や
姨捨山に照る月をみて
[#ここで字下げ終わり]
照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められて可《い》いわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場《ステエション》で、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」
しかるところ、暗がりに目が馴《な》れたのか、空は星の上に星が重《かさな》って、底《そこひ》なく晴れている――どこの峰にも銀の覆輪《ふくりん》はかからぬが、自《おのず》から月の出の光が山の膚《はだ》を透《とお》すかして、巌《いわ》の欠《かけ》めも、路の石も、褐色《かばいろ》に薄く蒼味《あおみ》を潮《さ》して、はじめ志した方へ幽《かすか》ながら見えて来た。灯前《あかりさき》の木の葉は白く、陰なる朱葉《もみじ》の色も浸《にじ》む。
かくして辿《たど》りついた薄暗い饂飩屋であった。
何《なん》しろ薄暗い。……赤黒くどんより煤《すす》けた腰障子の、それも宵ながら朦朧《もうろう》と閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記した大《おおき》な字が、鼾《いびき》をかいていそうに見えた。
この店の女房が、東京ものは清潔《きれい》ずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸《ゆわかし》を達引《たてひ》いてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。
「これは少々|酷過《ひどす》ぎますね。」
「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」
実は、この段、囁《ささや》き合って、ちょうどそこが三岐《みつまた》の、一方は裏山へ上る山岨《やまそば》の落葉の径《こみち》。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、灯《ひ》は遠し、思切って逆戻りにその饂飩屋を音訪《おとず》れたのであった。
「御免なさい。」
と小村さんが優しい穏《おだやか》な声を掛けて、がたがたがたと入ったが、向うの対手《あいて》より土間の足許《あしもと》を俯向《うつむ》いて視《み》つつ、横にとぼとぼと歩行《ある》いた。
灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。釣《つり》ランプだが、火屋《ほや》も笠も、煤《すす》と一所に油煙で黒くなって正体が分らないのであった。
が凝視《みつ》める瞳で、やっと少しずつ、四辺《あたり》の黒白《あいろ》が分った時、私はフト思いがけない珍らしいものを視《み》た。
二
框《かまち》の柱、天秤棒《てんびんぼう》を立掛けて、鍋釜《なべかま》の鋳掛《いかけ》の荷が置いてある――亭主が担ぐか、場合に依ってはこうした徒《てあい》の小宿《こやど》でもするか、鋳掛屋の居るに不思議はない。が、珍らしいと思ったのは、薄汚れた鬱金木綿《うこんもめん》の袋に包んで、その荷に一|挺《ちょう》、紛《まが》うべくもない、三味線を結《ゆわ》え添えた事である。
話に聞いた――谷を深く、麓《ふもと》を狭く、山の奥へ入った村里を廻る遍路のような渠等《かれら》には、小唄|浄瑠璃《じょうるり》に心得のあるのが少くない。行《ゆ》く先々の庄屋のもの置《おき》、村はずれの辻堂などを仮の住居《すまい》として、昼は村の註文を集めて仕事をする、傍ら夜は村里の人々に時々の流行唄《はやりうた》、浪花節《なにわぶし》などをも唄って聞かせる。聞く方では、祝儀のかわりに、なくても我慢の出来る、片手とれた鍋の鋳掛も誂《あつら》えるといった寸法。小児《こども》に飴菓子《あめがし》を売って一手《ひとて》踊ったり、唄ったり、と同じ格で、ものは違っても家業の愛想――盛場《さかりば》の吉原にさえ、茶屋小屋のおかっぱお莨盆《たばこぼん》に飴を売って、爺《じじ》やあっち、婆《ばば》やこっち、おんじゃらこっちりこ、ぱあぱあと、鳴物入で鮹《たこ》とおかめの小人形を踊らせた、おん爺《じい》があったとか。同じ格だが、中には凄《すご》いような巧《うま》いのがあるという。
唄いながら、草や木の種子《たね》を諸国に撒《ま》く。……怪しい鳥のようなものだと、その三味線が、ひとりで鳴くように熟《じっ》と視《み》た。
「相談は整いました。」
「それは難有《あ
次へ
全8ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング