りがた》い。」
「きあ、二階へどうぞ……何《なん》しろ汚いんでございますよ。」
と、雨もりのような形が動くと、紺の上被《うわっぱり》を着た婦《おんな》になって、ガチリと釣ランプを捻《ひね》って離して、框《かまち》から直ぐの階子段《はしごだん》。
小村さんが小さな声で、
「何《なん》しろこの体《てい》なんですから。」
「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」
「では、そのおつもりで――さあ、上《あが》りましょう。」
と勢《いきおい》よく、下駄を踏違えるトタンに、
「あっ、」と言った。
きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。
見事に小狗《こいぬ》を踏《ふみ》つけた。小村さんは狼狽《うろた》えながら、穴を覗《のぞ》くように土間を透かして、
「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」
で、遁《に》げないばかりに階子《はしご》を上《あが》ると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇の端《はじ》にしっかり縋《すが》った。二階から女房が、
「お気をつけなさいましよ……お頭《つむ》をどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」
「何《なあ》に。」
吻《ほっ》としながら、小村さんは気競《きお》ったように、
「踏着けられた狗から見りゃ、頭を打《ぶ》つけるなんぞ何でもない。」
日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程|周章《あわ》てたに違いない。
きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々《きれぎれ》に、声が細って泣止《なきや》まない。
「身に沁《し》みますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」
木地の古びたのが黒檀《こくたん》に見える、卓子台《ちゃぶだい》にさしむかって、小村さんは襟を合せた。
件《くだん》の油煙で真黒《まっくろ》で、ぽっと灯の赤いランプの下に畏《かしこま》って、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、
「旅はこれだから可《い》いんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」
と、探らないと顔が分らぬ。
「はあ。」
「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語《つきのよいひなものがたり》というのがあります、御存じでしょうけれど。」
「いいえ。」
「それはね、月見の人に、木曾の麻衣《あさぎぬ》まくり手したる坊さん、というのが、話をする趣向になっているんですがね。(更科山《さらしなやま》の月見んとて、かしこに罷《まかり》登りけるに、大《おおい》なる巌《いわ》にかたかけて、肘《ひじ》折《お》れ造りたる堂あり。観音を据え奉《たてまつ》れり。鏡台とか云う外山《とやま》に向いて、)……と云うんですから、今の月見堂の事でしょう。……きっとこの崖の半腹にありましょうよ。……そこの高欄におしかかりながら、月を待つ間《ま》のお伽《とぎ》にとて、その坊さんが話すのですが、薗原山《そのはらやま》の木賊刈《とくさがり》、伏屋里《ふせやのさと》の箒木《ははきぎ》、更科山の老桂《ふるかつら》、千曲川《ちくまがわ》の細石《さざれいし》、姨捨山の姥石《うばのいし》なぞッて、標題《みだし》ばかりでも、妙にあわれに、もの寂しくなるのです。皆この辺の、山々谷々の事なんでしょう。何《なん》にしろ、
[#ここから6字下げ]
信濃なる千曲の川のさゞれ石も
君しふみなば玉とひろはん
[#ここで字下げ終わり]
と言う場所なんですもの。――やあ、明るくなった。」
と思わず言った。
釣ランプが、真新しい、明《あかる》いのに取換ったのである。
「お待遠様、……済みません。」
「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」
女房は崩れた鬢《びん》の黒い中から、思いのほか白い顔で莞爾《にっこり》して、
「私どもでは難有《ありがた》いんでございますけれども、まあ、何しろ、お月様がいらっしって下さると可いんですけれども。」
その時、一列に蒲鉾形《かまぼこがた》に反《そ》った障子を左右に開けると、ランプの――小村さんが用心に蔓《つる》を圧《おさ》えた――灯が一煽《ひとあおり》、山気が颯《さっ》と座に沁みた。
「一昨晩の今頃は、二かさも三かさも大《おおき》い、真円《まんまる》いお月様が、あの正面へお出《いで》なさいましてございますよ。あれがね旦那、鏡台山《きょうだいざん》でございますがね、どうも暗うございまして。」
「音に聞いた。どれ、」
と立つと、ぐらぐらとなる……
「おっと。」
欄干につかまって、蝸牛《かたつむり》という身で、背を縮めながら首を伸ばし、
「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は研出《とぎだ》しだね。」
宵の明星が晃然《きらり》と蒼《あお》い。
「あの山裾《やますそ》が、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥に灯《あかり》が見えるでございましょう。善光寺平《ぜんこうじだいら》でございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」
「何里あります。」
「八里ございます。」
「ははあ。」
「真下の谷底に、ちらちらと灯《ひ》が見えましょう、あそこが、八幡《やはた》の町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております――おお、冷えますこと、……唯今《ただいま》お火鉢を。」
「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」
と座に戻ると、小村さんは真顔で膝《ひざ》に手を置いて、
「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷《さじき》が落ちそうで危険《けんのん》ですから。」
「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐《おそろ》しいね。」
と二人は顔を見合せた。
が、註文通り、火鉢に湯沸《ゆわかし》が天上して来た、火も赫《かッ》と――この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子《ちょうし》だけを借りて、持参の一升|壜《びん》の燗《かん》をするのに、女房は気障《きざ》だという顔もせず、お客|冥利《みょうり》に、義理にうどんを誂《あつら》えれば、乱れてもすなおに銀杏返《いちょうがえし》の鬢《びん》を振って、
「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお香《こう》のものを差上げましょう。」
その心意気。
「難有《ありがた》い。」
と熱燗《あつかん》三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、
「おかみさん。」
杯をずいとさして、
「一つ申上げましょう、お知己《ちかづき》に……」
「私は一向に不調法ものでございまして。」
「まあ一盞《ひとつ》。」
「もう、全く。」
「でも、一盞《ひとつ》ぐらい、お酌をしましょう。」
と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、辷《すべ》るように、しかも軋《きし》んで遁《に》げ下りる。
「何だい。」
「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうかしら。」
「泊りましょうか。」
「御串戯《ごじょうだん》を。」
クイッ、キュウ、クック――と……うら悲《かなし》げに、また聞える。
「弱りました。あの狗《いぬ》には。」
と小村さんはまた滅入《めい》った。
のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいと顕《あらわ》れたのは、色の黒い、いが栗《ぐり》で、しるし半纏《ばんてん》の上へ汚れくさった棒縞《ぼうじま》の大広袖《おおどてら》を被《はお》った、から脛《すね》の毛だらけ、図体は大《おおき》いが、身の緊《しま》った、腰のしゃんとした、鼻の隆い、目の光る……年配は四十|余《あまり》で、稼盛《かせぎざか》りの屈竟《くっきょう》な山賊面《さんぞくづら》……腰にぼッ込んだ山刀の無いばかり、あの皿は何《な》んだ、へッへッ、生首|二個《ふたつ》受取ろうか、と言いそうな、が、そぐわないのは、頤《あご》に短い山羊髯《やぎひげ》であった。
「御免なせえ……お香のものと、媽々衆《かかしゅ》が気前を見せましたが、取っておきのこの奈良漬、こいつあ水ぽくてちと中《ちゅう》でがす。菜ッ葉が食えますよ。長蕪《ながかぶ》てッて、ここら一体の名物で、異《おつ》に食えまさ、めしあがれ。――ところで、媽々衆のことづてですがな。せつかく御酒を一つと申されたものを、やけな御辞退で、何だかね、南蛮《なんばん》秘法の痲痺薬《しびれぐすり》……あの、それ、何とか伝三熊の膏薬《こうやく》とか言う三題|噺《ばなし》を逆に行ったような工合で、旦那方のお酒に毒でもありそうな様子|合《あい》が、申訳がございません。で、居候の私《わっし》に、代理として一杯、いんえただ一つだけ。おしるしに頂戴してくれるようにと申すんで、や、も、御覧の通《とおり》、不躾《ぶしつけ》ながら罷《まかり》出ました。実はね、媽々衆、ああ見えて、浮気もんでね、亭主は旅稼ぎで留守なり、こちらのお若い方のような、おッこちが欲しさに、酒どころか、杯を禁《た》っておりますんでね。はッはッはッ。」
階子《はしご》の下から、伸上った声がして、
「馬鹿な事を言わねえもんだ。」
と、むきになると、まるだしの田舎なまり。
「真鍮台《しんちゅうだい》め。」と言った。
「……真鍮台?……」
聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの藤助《とうすけ》と言う、金箔《きんぱく》つきの鋳掛屋で、これが三味線の持ぬしであった。面構《つらがまえ》でも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。
三
「私《わッし》はね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子も突《つッ》くるみに売っている、天井に釣《つる》した蕃椒《とうがらし》の方が、燈《ひ》よりは真赤《まっか》に目に立つてッた、皺《しな》びた店で、榾《ほだ》同然の鰊《にしん》に、山家|片鄙《へんぴ》はお極《きま》りの石斑魚《いわな》の煮浸《にびたし》、衣川《ころもがわ》で噛《くい》しばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前《みせさき》で、やた一きめていた処でございましてね。
ちょっと私《わっし》の懐中合《ふところあい》と、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪《とりにく》かったんでございますよ。というのが、焼山《やけやま》の下で、パッと一くべ、おへッつい様を燃《も》したも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。
ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中《やまなか》で、……狼温泉――」
「ああ、どこか、三峰山《みつみねさん》の近所ですか。」
と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参《ぬけまい》りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐《こわ》い思いをした小村さんは、聞怯《ききおじ》をして口を入れた……噛《か》むがごとく杯を銜《ふく》みながら、
「あすこじゃあ、お狗様《いぬさま》と言わないと山番に叱られますよ。」
藤助は真顔で、微酔《ほろよい》の頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「途方もねえ、見当違い、山また山を遥《はるか》に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深《おく》へ入った、飛騨《ひだ》の山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。
山坂を踏越えて、少々|平《たいら》な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰《ひざた》はまた格別、……酷《ひど》い
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング