し、大事にそれを持っていて、……出来るだけ我慢はしますけれども、どうしても開けたくってならなくなりました時に、生命《いのち》にかえても、開けて見とうございますから。)――
 晩の泊《とまり》はどこだって聞きますから、向うの峰の日脚を仰向《あおむ》いて、下の温泉だと云いますとね、双葉屋の女中だと、ここで姉さんが名を言って、お世話しましょうと、きつい発奮《はずみ》さ。
 御旅館などは勿体ねえ、こちとら式がと木賃がると、今頃はからあきで、人気《ひとけ》がなくって寂しいくらい。でも、お一方――一昨日《おととい》から、上州高崎の方だそうだけれど、東京にも少《すくな》かろう、品のいい美しい、お嬢さんだか、夫人《おくさま》だか、少《わか》い方がお一方……」
「お一方?」
 と、うっかり訊《き》いて私は膝を堅うした。――小村さんも同じ思いは疑いない。――あの時、その窈窕たる御寮が、汽車を棄てたのは、かしこで、その高崎であった。
「さようで。――お一方|御逗留《ごとうりゅう》、おさみしそうなその方にも、いまの立山が聞かせたいと、何となくそのお一方が、もっての外気になるようで、妙に眉のあたりを暗くしましたっけ、熟《じっ》と日のかげる山を視《なが》めたが、
(ああ。鋳掛屋さん。)
 と慌《あわただ》しい。……皆まで聞かずと飲込んだ、旦那様帰り引[#「引」は小文字]と……ここらは鵜《う》だてね、天幕《テント》の逢目《あいめ》をひょこりと出た。もとの山端《やまっぱな》へ引退《ひきさが》り、さらば一服|仕《つかまつ》ろう……つぎ置の茶の中には、松の落葉と朱葉《もみじ》が一枚。……」

(ああ、腹が減った……)
 と色気のない声を出して、どかりと椅子に掛けたのは、焦茶色の洋服で、身の緊《しま》った、骨格のいい、中古《ちゅうぶる》の軍人といった技師の先生だ。――言うまでもなく、立野竜三郎は渠《かれ》である――
(減った、減った、無茶に減った。)
 と、いきなり卓子《テエブル》の上の風呂敷包みを解くと、中が古風にも竹の子弁当。……御存じはございますまい、三組《みつぐみ》の食籠《わりご》で、畳むと入子《いれこ》に重《かさな》るやつでね。案ずるまでもありませんや、お道姉さんが心入れのお手料理か何かを、旅館から運ぶんだね。
(うまい、ああ旨《うま》い、この竹輪は骨がなくて難有《ありがた》い。)
 余り旨そうなので、こっちは里心が着きました。建場《たてば》々々で飲酒《や》りますから、滅多に持出した事のない仕込の片餉《かたげ》、油揚《あぶらげ》の煮染《にしめ》に沢庵というのを、もくもくと頬張りはじめた。
 お道さんが手拭を畳んでちょっと帯に挟んだ、茶汲女《ちゃくみおんな》という姿で、湯呑を片手に、半身で立って私《わっし》の方を視《み》ましたがね。

(旦那様《だんなさん》……あの、鋳掛屋さんが、お弁当を使いますので、お茶を御馳走《ごちそう》いたしました。……お盆がなくて手で失礼でございます。)
 と湯気の上る処を、卓子の上へ置くんでございますがね、加賀の赤絵の金々たるものなれども、ねえ、湯呑は嬉しい心意気だ。
(何、鋳掛屋。)
 と、何だか、気を打ったように言って、先生、扁平《ひらた》い肩で捻《ね》じて、私《わっし》の方を覗《のぞ》きましたが、
(やあ、御馳走はありますか。)
 とかすれ笑いをしなさるんだ。
(へッ、へッ。)と、先はお役人様でがさ、お世辞|笑《わらい》をしたばかりで、こちらも肩で捻向く面《つら》だ、道陸神《どうろくじん》の首を着換《つけか》えたという形だてね。
(旨い。)
 姉さんが嬉しそうな顔をしながら、
(あの、電信の故障は、直りましてございますか。)
(うむ、取払ったよ。)
 と頬張った含声《ふくみごえ》で、
(思ったより余程さきだった。)
 ははあ、電線に故障があって、障《さわ》るものの見当が着いた処から、先生、山めぐりで見廻ったんだ。道理こそ、いまし方天幕へ戻って来た時に、段々塗の旗竿《はたざお》を、北極探検の浦島といった形で持っていて、かたりと立掛けて入《へえ》んなすった。
(どうかなっていましたの。)
(変なもの……何、くだらないものが、線の途中に引搦《ひっからま》って……)
 カラリと箸《はし》を投げる音が響いた。
(うむ、来た。……トーン、トーン……可《よ》し。)
 お道さんの声で、
(旦那様、何ぞ御心配な事ではございませんか。)
 一口がぶりと茶を飲んで、
(詰《つま》らぬ事を……他所《よそ》へ来た電報に、一々気を揉《も》んでいて堪《たま》るもんですか。)
(でも、先刻《さっき》、この電信が参りました時、何ですか、お顔の色が……)
(……故障のためですよ、青天井の煤払《すすはき》は下さりませんからな、は、は。)
 と笑った。
 坂をするすると這上《はいあが》る、蝙蝠《こうもり》か、穴熊のようなのが、衝《つッ》と近く来ると、海軍帽を被《かぶ》ったが、形《なり》は郵便の配達夫――高等二年ぐらいな可愛い顔の少年が、ちゃんと恭《うやうや》しく礼をした。
(ああ、ちょうどいま繋《つなが》った。)
(どうした故障でございますか。)
 と切口上で、さも心配をしたらしい。たのもしいじゃあございませんか。
(網掛場《あみかけば》の先の処だ、烏を蛇が捲《ま》いたなりで、電線に引搦《ひっからま》って死んでいたんだよ。烏が引啣《ひきくわ》えて飛ぼうとしたんだろう……可なり大《おおき》な重い蛇だから、飛切れないで鋼線《はりがね》に留った処を、電流で殺されたんだ。ぶら下った奴は、下から波を打って鎌首をもたげたなりに、黒焦《くろこげ》になっていた――君、急いでくれ給え、約四時間延着だ。)
(はっ。)
 と云って行《ゆ》くのを、
(ああ、時さん。)
 とお道さんは沈んで呼んだ。が、寂しい笑顔を向け直して、
(配達さん――どこへ……)と訊《き》いた。
 少年が正しく立停《たちとど》まって、畳んだ用紙を真《まっ》すぐに視《み》て、
(狼温泉――双葉館方……村上縫子……)
(そしてどちらから。)
(ヤホ次郎――行って来ます。)
(そんな事を聞くもんじゃあない。)
(ああ、済みませんでした。)
(何、構わないようなもんじゃあるがね――どっこいしょ。)
 がた、がたんと音がする。先生、もう一つの卓子《テエブル》を引立って、猪と取組《とっく》むように勢《いきおい》よく持って出ると、お道さんはわけも知らないなりに、椅子を取って手伝いながら、
(どう遊ばすの。)
 と云ううちに、一段下りた草原《くさっぱら》へ据えたんでございますがね、――わけも知らずに手伝った、お道さんの心持を、あとで思うと涙が出ます。」
 と肩もげっそりと、藤助は沈んで言った。……
「で、何でございますよ――どう遊ばすのかと、お道さんが言うと、心待、この日暮にはここに客があるかも知れんと、先生が言いますわ。あれ、それじゃこんな野天でなく、と、言おうじゃあございませんか。
(いや、中で間違《まちがい》があるとならんので。)
(え、間違とおっしゃって。)
 とお道さんが、ひったり寄った。
(私は、)
 と先生は、肘《ひじ》で口の端《はた》を横撫《よこなで》して、
(髯《ひげ》もまずいが、言う事がまずくて不可《いか》んです。間違じゃあない、故障です、素人は気なしだからして、あんな狭い天幕の中で、器械にでも障って、また故障にでもなると不可んのだ。決して心配な事ではないのです、――さあ飯だ、飯だ。)
 と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また和女《おまえ》の手も要るだろう、余り遅くならないうちにと、懇《ねんごろ》に言うと、
(はい、はい。)
 と柔順《すなお》に返事する。片手間に、継掛けの紺足袋と、寝衣《ねまき》に重ねる浴衣のような洗濯ものを一包、弁当をぶら下げて、素足に藁草履《わらぞうり》、ここらは、山家で――悄々《しおしお》と天幕を出た姿に、もう山の影が薄暗く隈を取って映りました。
(今、何時だろう。)
 と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。
(……四時半頃にもなりましょうか。)
(時計が止《とま》ったよ――気をつけておいで。)
 と大《おおき》な懐中時計と、旗竿の影を、すっくり立って、片頬《かたほ》夕日を浴びながら、熟《じっ》と落着いて視《なが》めていなさる。……落着いて視《み》ちゃあいなすったが、先生少々どうかなさりやしねえのかと思ったのは、こう変に山が寂しくなって、通魔《とおりま》でもしそうな、静寂《しじま》の鐘の唄の塩梅《あんばい》。どことなくドン――と響いて天狗倒《てんぐだおし》の木精《こだま》と一所に、天幕の中《うち》じゃあ、局の掛時計がコトリコトリと鳴りましたよ。
 お地蔵様が一体、もし、この梟ヶ嶽の頭を肩へ下り口に立ってござる。――私《わっし》どもは、どうかすると一日《いちんち》の中《うち》にゃ人間の数より多くお目に掛《かか》る、至極|可懐《なつか》しいお方だが……後で分りました。この丘は、むかし、小さな山寺があったあとだそうで、そう言や草の中に、崩れた石の段々が蔦《つた》と一所に、真下の径《こみち》へ、山懐《やまぶところ》へまとっています。その下の径というのが、温泉宿《ゆのやど》入りの本街道だね。
 お道さんが、帰りがけに、その地蔵様を拝みました。石の袈裟《けさ》の落葉を払って、白い手を、じっと合せて、しばらくして、
(また、お目にかかります。)
 と顔を上げて、
(後程に――)
 もう先生は天幕へ入った――で、私《わっし》にしみじみとした調子で云った時の面影が忘れられねえ!……睫毛《まつげ》にたまって、涙が一杯。……風が冷く、山はこれから、湿っぽい。
 秋の日は釣瓶《つるべ》落しだ、お前さん、もうやがて初冬《はつふゆ》とは言い条、別して山家だ。静《しずか》に大沼の真中《まんなか》へ石を投げたように、山際へ日暮の波が輪になって颯《さっ》と広がる中で、この藤助と云う奴が、何をしたと思召《おぼしめ》す。
 三尺をしめ直す、脚絆の埃《ほこり》を払《はた》いたり、荷づなを天秤《てんびん》に掛けたり、はずしたり。……三味線の糸をゆるめたり、袋に入れたり……さてまた袋を結んだり。
 そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、攀《よ》じ攀じ、ずッと上《あが》って来た、一個《ひとり》、年紀《とし》の少《わか》い紳士《だんな》があります。
 山の陰気な影をうけて、凄《すご》いような色の白いのが、黒の中折帽を廂下《ひさしさが》りに、洋杖《ステッキ》も持たず腕を組んだ、背広でオオバアコオトというのが、色がまた妙に白茶けて、うそ寂しい。瘠《や》せて肩の立った中脊でね。これが地蔵様の前へ来て、すっくりと立ったと思うと、頭髪《かみ》の伸びた技師の先生が、ずかずかと天幕を出ました。
 それ、卓子《テエブル》を中に、控えて、開いて、屹《きっ》と向合ったと思召せ。
 少《わか》い紳士《だんな》が慇懃《いんぎん》に、
(失礼ですが、立野竜三郎氏でいらっしゃいますか。)
(さよう、お尋ねを蒙《こうむ》りました竜三郎、私《わたくし》であります。)
(申しおくれました、私は村上|八百次郎《やおじろう》と申すものです。はじめてお目にかかります……唯今、名刺を。)
(いや。)
 と先生、卓子の上へ両手をずかと支《つ》いて、
(三年|前《ぜん》から、御尊名は、片時といえども相忘れません、出過ぎましたが、ほぼ、御訪問[#「訪問」は底本では「訪門」]に預りました御用向《ごようむき》も存じております。)
 と、少《わか》いのが少し屹《きっ》となって、
(用向を御存じですか?)
(まず、お掛け下さい。)
 と先生は、ドカリと野天の椅子に掛けた。
 何となく気色ばんだ双方の意気込が、殺気を帯びて四辺《あたり》を払った。この体《てい》を視た私《わっし》だ。むかし物語によくあります、峰の堂、山の祠《ほこら》で、怪しく凄《すご》い神たちが、神つどいにつどわせたという場
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