りますえ。)
失礼な……人様の革鞄を……だが、私《わっし》あつい、うっかり言った。
(あの、旦那さんのお大事なものばかり。)
(へい、貴女《あなた》の旦那様の?)
(いいえ、技師の先生の方ですが、その方のお大事なものが残らず、お国でおかくれになりました奥様のお骨《こつ》も、たったお一人ッ子の、かけがえのない坊ちゃまのお骨も、この中に入っていらっしゃるんですって。)
と、こう言うんですね。」
小村さんと私は、黙って気を引いて瞳を合した。
藤助は一息ついて、
「それを聞いて、安心をしたくらいだ。技師の旦那の奥様と坊ちゃまのお骨と聞いて、安心したも、おかしなものでございますがね、一軒家の化葛籠《ばけつづら》だ、天幕の中の大革鞄じゃあ、中《うち》に何が入ってるか薄気味が悪かったんで。
(へい、その鍵をおなくしなすった……そいつはお困りで、)
と錠前の寸法を当りながら、こう見ますとね、新聞のまだ残った処に、青錆《あおさび》にさびた金具の口でくいしめた革鞄の中から、紫の袖が一枚。……
袂《たもと》が中に、袖口をすんなり、白羽二重の裏が生々《いきいき》と、女の膚《はだ》を包んだようで、被《き》た人がらも思われる、裏が通って、揚羽《あげは》の蝶の紋がちらちらと羽を動かすように見えました。」
小村さんと私とは、じっと見合っていたままの互の唇がぶるぶると震えたのである。
七
――実はこの時から数えて前々年の秋、おなじ小村さんと、(連《つれ》がもう一人あった。)三人連で、軽井沢、碓氷《うすい》のもみじを見た汽車の中《うち》に、まさしく間違うまい、これに就いた事実があって、私は、不束《ふつつか》ながら、はじめ、淑女画報に、「革鞄《かばん》の怪。」後に「片袖。」と改題して、小集の中《うち》に編んだ一篇を草した事がある。
確《たしか》に紫の袖の紋も、揚羽の蝶と覚えている。高島田に花笄《はなこうがい》の、盛装した嫁入姿の窈窕《ようちょう》たる淑女が、その嫁御寮に似もつかぬ、卑しげな慳《けん》のある女親まじりに、七八人の附添とともに、深谷《ふかや》駅から同じ室に乗組んで、御寮はちょうど私たちの真向うの席に就いた。まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣《こころやり》と、恐怖《おそれ》と、笑《えみ》と、涙とは、そのまま膝に手を重ねて、つむりを重たげに、ただ肩を細く、さしうつむいた黒髪に包んで、顔も上げない。まことにしとやかな佳人であった。
この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が饒舌《しゃべ》るのと、ほぼ大差のないものであった。
が、持ぬしは、意気沈んで、髯《ひげ》、髪もぶしょうにのび、面《おもて》は憔悴《しょうすい》はしていたが、素純にして、しかも謹厳なる人物であった。
汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》であろう、失策した人物に対して、傍《はた》の見る目は寧《むし》ろ気の毒なほどであった。
一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。
我も人も、しかあるべく信じた。
しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと握拳《にぎりこぶし》の手を抜くと斉《ひと》しく、列車の内へすっくと立って、日に焼けた面《つら》は瓦《かわら》の黄昏《たそが》るるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って、掠声《かすれごえ》して言った。……これなる窈窕たる淑女(――私もここにその人物の言った言《ことば》を、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖を侵《おか》したのは偶然の麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]である。はじめは旅行案内を掴出《つかみだ》して、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は――と云って垂々《たらたら》と額に流るる汗を拭《ぬぐ》って――ただ一瞬間に千万無量、万劫《ばんごう》の煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、正《まさ》しく他《ひと》に嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場《ステエション》にて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。私《わたくし》はこの窓から、遥《はるか》に北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍《ししゅう》した、あの遠山《えんざん》の頂を望んで、ほとんど無辺際に投げたのです、と言った。
――汽車は赤城山《あかぎさん》をその巽《たつみ》の窓に望んで、広漠たる原野の末を貫いていたのであった。――
渠《かれ》は電信技師である。立野竜三郎《たつのりゅうざぶろう》と自ら名告《なの》った。渠《かれ》はもとより両親も何もない、最愛の児《こ》を失い、最愛の妻を失って、世を果敢《はかな》むの余り、その妻と子の白骨と、ともに、失うべからざるものの一式、余さずこの古革鞄に納めた、むしろ我が孤《みひとつ》の煢然《けいぜん》たる影をも納めて、野に山に棄つるがごとく、絶所、僻境《へききょう》を望んで飛騨山中の電信局へ唯今赴任する途中である。すでに我身ながら葬り去った身は、ここに片袖とともに蘇生《よみがえ》った。蘇生ると同時に、罪は死である。否《いや》、死はなお容易《たやす》い、天の咎《とが》、地の責《せめ》、人の制規《おきて》、いかなる制裁といえども、甘んじて覚悟して相受ける。各位が、我《わが》ために刑を撰んで、その最も酷なのは、磔《はりつけ》でない、獄門でない、牛裂《うしざき》の極刑でもない。この片袖を挟んだ古革鞄を自分にぶら下げさせて、嫁御寮のあとに犬のごとく従わせて、そのまま今日《こんにち》の婿君の脚下に拝し跪《ひざまず》かせらるる事である。諾《よし》、その厳罰を蒙《こうむ》りましょう、断じて自分はこの革鞄を開いて片袖は返さぬのである。ただ、天地神明に誓うのは、貴女《きじょ》の淑徳と貞潔である。自分は生れてより今に及んで、その姿を視《み》たのはわずかに今より前《ぜん》、約三十分に過ぎない、……包ましくさしうつむかれた淑女は、申すまでもなく、自分に向って瞳をも動かされなかった事を保証する、――謹んで断罪を待ちます……各位。
吶々《とつとつ》として、しかも沈着に、純真に、縷々《るる》この意味の数千言を語ったのが、轟々《ごうごう》たる汽車の中《うち》に、あたかも雷鳴を凌《しの》ぐ、深刻なる独白のごとく私たちの耳に響いた。
附添の数多《あまた》の男女は、あるいは怒り、あるい罵《ののし》り、あるいは呆れ、あるいは呪詛《のろ》った。が、狼狽《ろうばい》したのは一様である。車外には御寮を迎《むかえ》の人数《にんず》が満ちて、汽車は高崎に留まろうとしたのであるから……
既に死灰のごとく席に復して瞑目《めいもく》した技師がその時再び立った。ここに手段があります、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀《ナイフ》をもって革鞄を切開く事なのです。……私《わたくし》は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘《さや》をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相《けんそう》な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹《きっ》と猜疑《さいぎ》の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。
「いいえ!」
と一言《ひとこと》、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切《ひっき》った。緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》が※[#「火+發」、192−6]《ぱっ》と燃える、片身を火に焼いたように衝《つッ》と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集《つど》う群集は黒煙《くろけむり》に似たのである。
技師は真俯向《まうつむ》けに、革鞄の紫の袖に伏した。
乗合は喝采《かっさい》して、万歳の声が哄《どっ》と起った。
汽車の進むがままに、私たちは窓から視《み》た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手を翳《かざ》して此方《こなた》を見送った半身の紅《くれない》は、美しき血をもって描いたる煉獄《れんごく》の女精であった。
碓氷の秋は寒かった。
八
藤助は語り継いだ。
「姉《ねえ》さんが、そうすると……驚いたように、
(あれ、それを見ちゃ不可《いけ》ません。)
(やあ、つい麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》を。)
と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声《こごえ》になって気の毒そうに、
(でも、あの、そういう私が、密《そっ》と出して、見たいんでございます。)
(そこで鍵が御入用。)
(ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。)
(何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)
とその容子《ようす》だもの、お前さん、何だって構やしません。――お手軽様に言って退《の》けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後《あとさき》を視《み》ましたっけ。
(では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を拵《こしら》えるより前《さき》に、手で開けるわけには参りませんの。)
ぶるぶるぶる……私《わっし》あ、頭と嘴《くちばし》を一所に振った。旦那の前《めえ》だが、……指を曲げて、口を押えて、瞼《まぶた》へ指の環を当がって、もう一度頭を掉《ふ》った。それ、鍵の手は、内証で遣《や》っても、たちまちお目玉。……不可《いけね》えてんだ、お前さん。
(御法度《ごはっと》だ。)
と重く持たせて、
(ではござれども、姉さんの事だ、遣らかしやしょう、大達引《おおたてひき》。奥様のお記念《かたみ》だか、何だか知らねえ。成程こいつあ、そのな、へッへッ、誰方《どなた》かに向っての姉さんの心意気では……お邪魔になるでございましょうよ。奥歯にものが挟まったって譬《たとえ》はこれだ。すっぱり、打開《ぶちま》けてお出しなせえまし。)
(いえ、あの、開けて出すよりか、私が中へ入りたい。)
と仇気《あどけ》なく莞爾《にっこり》すら、チェーしたもんだ。
(御串戯《ごじょうだん》で、中へ入ると、恐怖《おっかね》え、その亡くなった奥さんの骨《こつ》があるんじゃありませんかい。)
(もう、私は、あの、奥さまの、その骨《ほね》になりたいの。)
ああ、その骨になりたいか、いや、その骨でこっちは海月《くらげ》だ、ぐにゃりとなった。
(御勝手だ。)
(あれ、そのかわりに奥さまが、活きた私におなんなさる、容色《きりょう》は、たとえこんなでも。)
(御勝手だ。いや、御法度だね。)
(そんな事を言わないで、後生ですから、鋳掛屋さん。)
(開けますよ。だがね……)
と、一つ勿体《もったい》で、
(こいつあ口伝《くでん》だ、見ちゃ不可《いけね》え、目を瞑《つぶ》っていておくんなさい。)
(はい。)
(もっと。)
(はい。)
(不可《いけね》え不可え、薄目を開けてら。)
(まあ、では後を向きますわ。)
(引《ひき》しまって、ふっくりと柔《やわら》かで、ああ、堪《たま》らねえ腰附だ。)
(可厭《いや》……知りませんよ。)
と向直ると、串戯《じょうだん》の中にしんみりと、
(あれ、ちょっと待って下さいまし。いま目をふさいで考えますと、お許《ゆるし》がないのに錠前を開けるのは、どうも心が済みません。神様、仏様に、誓文《せいもん》して、悪い心でなくっても、よくない事だと存じます。)
私《わっし》も真面目《まじめ》にうなずきました。
(でも、合鍵は拵えて下さいま
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