んで、申さずとも娘ッ子じゃありません、こりゃ御新姐《ごしんぞ》……じゃあねえね――若奥様。」
五
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峰の白雪、麓《ふもと》の氷、
今は互に隔てていれど、
やがて嬉しく、溶けて流れて、
合うのじゃわいな。……
[#ここで字下げ終わり]
「私《わっし》は日暮前に、その天幕張《テントばり》の郵便局の前を通って来たんでございますよ。……ちょうど狼の温泉へ入込《いりこ》みます途中でな。……晩に雪が来ようなどとは思いも着かねえ、小春日和《こはるびより》といった、ぽかぽかした好《い》い天気。……
もっとも、甲州から木曾街道、信州路を掛けちゃあ、麓《ふもと》の岐路《えだみち》を、天秤《てんびん》で、てくてくで、路傍《みちばた》の木の葉がね、あれ性《しょう》の、いい女の、ぽうとなって少し唇の乾いたという容子《ようす》で、へりを白くして、日向《ひなた》にほかほかしていて、草も乾燥《はしゃ》いで、足のうらが擽《くすぐ》ってえ、といった陽気でいながら、槍《やり》、穂高、大天井、やけに焼《やけ》ヶ嶽などという、大薩摩《おおざつま》でもの凄《すご》いのが、雲の上に重《かさな》って、天に、大波を立てている、……裏の峰が、たちまち颯《さっ》と暗くなって、雲が被《かぶ》ったと思うと、箕《み》で煽《あお》るように前の峰へ畝《うね》りを立ててあびせ掛けると、浴びせておいて晴れると思えば、その裏の峰がもう晴れた処から、ひだを取って白くなります。見る見るうちに雪が掛《かか》るんでございましてね。左右の山は、紅くなったり、黄色かったり、酔ったり、醒《さ》めたりして、移って来るそのむら雲を待っている。
といった次第《わけ》で、雪の神様が、黒雲の中を、大《おおき》な袖を開いて、虚空を飛行《ひぎょう》なさる姿が、遠くのその日向の路に、螽斯《ばった》ほどの小さな旅のものに、ありありと拝まれます。
だから、日向で汗ばむくらいだと言った処で、雑樹一株隔てた中には、草の枯れたのに、日が映《さ》すかと見れば、何、瑠璃色《るりいろ》に小さく凝《こ》った竜胆《りんどう》が、日中《ひなか》も冷い白い霜を噛《か》んでいます。
が、陽の赤い、その時梟ヶ嶽は、猫が日向ぼっこをしたような形で、例の、草鞋《わらじ》も脚絆《きゃはん》も擽《くすぐ》ってえ。……満山のもみじの中《うち》に、もくりと一つ、道も白く乾いて、枯草がぽかぽかする。……芳《かんば》しい落葉の香のする日の影を、まともに吸って、くしゃみが出そうなのを獅噛面《しかみづら》で、
(鋳掛……錠前の直し。)
すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業|冥利《みょうり》……
(鋳掛……錠前直し。)……
と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった築山《つきやま》てった下を……温泉場の屋根を黒く小さく下に見て、通りがかりに、じろり……」
藤助は、ぎょろりとしながら、頬辺《ほっぺた》を平手で敲《たた》いて、
「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、ト行《や》った時、はじめて見たのが湯女のその別嬪だ。お道さんは、半襟の掛った縞の着ものに、前垂掛《まえだれがけ》、昼夜帯、若い世話女房といった形で、その髪のいい、垢抜《あかぬけ》のした白い顔を、神妙に俯向《うつむ》いて、麁末《そまつ》な椅子に掛けて、卓子《テエブル》に凭掛《よりかか》って、足袋を繕っていましたよ、紺足袋を……
(鋳掛……錠前の直し。)……
ちょっと顔を上げて見ましたっけ。直《すぐ》に、じっと足袋を刺すだて。
動いただけになお活《い》きて、光沢《つや》を持った、きめの細《こまか》な襟脚の好《よ》さなんと言っちゃねえ。……通り切れるもんじゃあねえてね、お前さん、雲だか、風だか、ふらふらと野道山道宿なしの身のほまちだ。
一言《ひとこと》ぐらい口を利いて、渋茶の一杯も、あのお手からと思いましたがね、ぎょっとしたのは半分焦げたなりで天幕の端に真直《まっすぐ》に立った看板だ。電信局としてある……
茶屋小屋、出茶屋の姉《ねえ》さんじゃあねえ。風俗《なりふり》はこの目で確《たしか》に睨《にら》んだが……おやおや、お役人の奥様かい。……郵便局員の御夫人かな。
これが旦那方だと仔細《しさい》ねえ。湯茶の無心も雑作はねえ。西行法師なら歌をよみかける処だが、山家めぐりの鋳掛屋じゃあ道を聞くのも跋《ばつ》が変だ。
ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた卓子《テエブル》がもう一台。向ってきちんと椅子が置いてあるが、役人らしいのは影も見えねえ。
ははあ、来る道で、向《むこう》の小山の土手腹《どてっぱら》に伝わった、電信の鋼線《はりがね》の下あたりを、木の葉の中に現れて、茶色の洋服で棒のようなものを持って、毛虫が動くように小さく歩行《ある》いている形を視《み》た。……鉄砲打の鳥おどしかと思ったが、大きにそんなのが局員の先生で、この姉さんの旦那かも知れねえよ。
が何しろ留守だ。
(鋳掛……錠前直し。)……
と崖ぶちの日向《ひなた》に立ったが、紺足袋の繕い。……雪の襟脚、白い手だ。悚然《ぞっ》とするほど身に沁みてなりませんや。
遥《はるか》に見える高山の、かげって桔梗色《ききょういろ》したのが、すっと雪を被《かつ》いでいるにつけても。で、そこへまず荷をおろしました。
(や、えいとこさ。)と、草鞋《わらじ》の裏が空へ飜《かえ》るまで、山端《やまばた》へどっしりと、暖かい木の葉に腰を落した。
間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うの嶽《たけ》の雪を視《み》ながら、
(ああ、降ったる雪かな。)
とか何とか、うろ覚えの独言《ひとりごと》を言ってね、お前さん、
(それ、雪は鵝毛《がもう》に似て飛んで散乱し、人は鶴※[#「敞/毛」、第3水準1−86−46]《かくしょう》を着て立って徘徊《はいかい》すと言えり……か。)
なんのッて、ひらひらと来る紅色《べにいろ》の葉から、すぐに吸いつけるように煙草《たばこ》を吹かした。が、何分にも鋳掛屋じゃあ納《おさま》りませんな。
ところでさて、首に巻いた手拭《てぬぐい》を取って、払《はた》いて、馬士《まご》にも衣裳《いしょう》だ、芳原かぶりと気取りましたさ。古三味線を、チンとかツンとか引掻鳴《ひっかきな》らして、ここで、内証で唄ったやつでさ。
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峰の白雪、麓の氷――
[#ここで字下げ終わり]
旦那、顔を見っこなし……極《きまり》が悪い……何と、もし、これで別嬪の姉さんを引寄せようという腹だ、おかしな腹だ、狸《たぬき》の腹だね。
だが、こいつあこちとら徒《であい》の、すなわち狸の腹鼓という甘術《あまて》でね。不気味でも、気障《きざ》でも、何でも、聞く耳を立てるうちに、うかうかと釣出されずにゃいねえんだね。どうですえ、……それ、来ました。」
と不意に振向く、階子段《はしごだん》の暗い穴。
小村さんも私も慄然《ぞっと》した。
女房はなおの事……
「あれ、吃驚《びっくり》した。」
と膝で摺寄《すりよ》る。
藤助は一笑して、
「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」
六
「見ない振《ふり》、知らない振、雪の遠山《とおやま》に向いて、……溶けて流れてと、唄っていながら、後方《うしろ》へ来るのが自然と分るね、鹿の寄るのとは違います。……別嬪の香《かおり》がほんのりで、縹緻《きりょう》に打たれて身に沁む工合が、温泉の女神様《おんながみさま》が世話に砕けて顕《あらわ》れたようでございましたぜ。……(逢いたさに見たさに)何とか唄《や》って、チャンと句切ると、
(あの、鋳掛屋さん。)
と、初音《はつね》だね。……
視《み》ると、朱塗の盆に、吸子《きびしょ》、茶碗を添えて持っている。黒繻子《くろじゅす》の引掛帯《ひっかけおび》で、浅葱《あさぎ》の襟のその様子が何とも言えねえ。
いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのが載《の》っていました。……それがために讃《ほ》めるんじゃあねえけれど、拵《こしら》えねえで、なまめいたもんでしたぜ。人を喰ったこっちの芳原かぶりなんざ、もの欲しそうで極《きま》りが悪くなったくらいで。
(へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)
とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。
姉《ねえ》さんが、初々しい、しおらしい事を、お聞きなせえ、ぽうッとなって、
(まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)
さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。お眺《あつらえ》が註文にはまった。こんな処でよろしければ、山で樹の数、幾つだって構やあしませんと、……今度は(浮世はなれて奥山ずまい、恋もりん気も忘れていたが、)……で御機嫌を取結ぶと、それよりか、やっぱり、先《せん》の(やがて嬉しく溶けて流れて合うのじゃわいな)の方を聞かして欲しいと、山姫様、御意遊ばす。」
藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も引緊《ひきしま》った。
「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、〆加減《しめかげん》の好《い》い帯腰で、下に居て、白い細い指の先を、染めた草につくようにして熟《じっ》と聞く。……聞手が、聞手だ。唄う方も身につまされて、これでもお前さん、人間|交際《づきええ》もすりゃ、女|出入《でいり》も知らねえじゃあねえ。少《わか》い時を思い出して、何となく、我身ながら引入れられて、……覚えて、ついぞねえ、一生に一度だ。較《くら》べものにゃあなりませんが、むかし琵琶法師《びわほうし》の名誉なのが、こんな処で草枕、山の神様に一曲奏でた心持。
と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、睫毛《まつげ》を長くうつむいて、ほろりとした時、こっらも思わず、つい、ほろり……いえさ、この面《つら》だからポタリと出ました。」
と口では言いつつ声が湿った。
「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の合鍵《あいかぎ》を頼まれて下さいますか。)……と姉さんがね。
私《わっし》あこれを聞いて、ポンと両手を拍《う》った。
このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。
(鍵が狂ったんでございますかい。)
(いいえ、無いんですけれど。)
(雑作はがあせん、煙草三服飲む間《うち》だ。)
そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しましたが、高い処にこう立つと、風が攫《さら》って、すっと、雲の上へ持って行《ゆ》きそうで危《あぶな》ッかしいように見えます。
勿論人影は、ぽッつりともない。
が、それでも、天幕《テント》の正面からじゃあ、気咎《きとが》めがしたと見えて、
(済みませんが、こっちから。)
裏へ廻わると、綻《ほころ》びた処があるので。……姉さんは科《しな》よく消えたが、こっちは自雷也《じらいや》の妖術にアリャアリャだね。列子《せこ》という身で這込《はいこ》みました。が、それどころじゃあねえ。この錠前だと言うのを一見に及ぶと、片隅に立掛けた奴だが、大蝦蟆《おおがま》の干物とも、河馬《かば》の木乃伊《みいら》とも譬《たと》えようのねえ、皺《しな》びて突張《つっぱ》って、兀斑《はげまだら》の、大古物の大《でっ》かい革鞄《かばん》で。
こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた兵児帯《へこおび》でぐるぐると巻いてあるんだが、結びめは、はずれて緩んで、新聞もばさりと裂けた。そこからそれ、煤《すす》を噴きそうな面《つら》を出して、蘆《あし》の茎《ずい》から谷|覗《のぞ》くと、鍵の穴を真黒《まっくろ》に窪ましているじゃアありませんか。
(何が入ってお
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