遣《おしや》って、がっくりと筋が萎《な》えた風に、折重なるまで摺寄《すりよ》りながら、黙然《だんま》りで、燈《ともしび》の影に水のごとく打揺《うちゆら》ぐ、お三重の背中を擦《さす》っていた。
「島屋の亭が、そんな酷《ひど》い事をしおるかえ。可いわ、内の御隠居にそう言うて、沙汰をして上げよう。心安う思うておいで、ほんにまあ、よう和女《あんた》、顔へ疵《きず》もつけんの。」
と、かよわい腕《かいな》を撫下《なでお》ろす。
「ああ、それも売物じゃいうだけの斟酌《しんしゃく》に違いないな。……お客様に礼言いや。さ、そして、何かを話しがてら、御隠居の炬燵《こたつ》へおいで。切下髪《きりさげがみ》に頭巾《ずきん》被《かぶ》って、ちょうどな、羊羹《ようかん》切って、茶を食べてや。
けども、」
とお三重の、その清らかな襟許《えりもと》から、優しい鬢毛《びんのけ》を差覗《さしのぞ》くように、右瞻左瞻《とみこうみ》て、
「和女《あんた》、因果やな、ほんとに、三味線は弾けぬかい。ペンともシャンとも。」
で、わざと慰めるように吻々《ほほ》と笑った。
人の情《なさけ》に溶けたと見える……氷る涙の玉を散らして、はっと泣いた声の下で、
「はい、願掛けをしましても、塩断ちまでしましたけれど、どうしても分りません、調子が一つ出来ません。性来《うまれつき》でござんしょう。」
師走の闇夜《やみよ》に白梅《しらうめ》の、面《おもて》を蝋《ろう》に照らされる。
「踊もかい。」
「は……い、」
「泣くな、弱虫、さあ一つ飲まんか! 元気をつけて。向後どこへか呼ばれた時は、怯《おび》えるなよ。気の持ちようでどうにもなる。ジャカジャカと引鳴らせ、糸瓜《へちま》の皮で掻廻すだ。琴《こと》も胡弓《こきゅう》も用はない。銅鑼鐃※[#「金+祓のつくり」、第3水準1−93−6]《どらにょうはち》を叩けさ。簫《しょう》の笛をピイと遣れ、上手下手は誰にも分らぬ。それなら芸なしとは言われまい。踊が出来ずば体操だ。一、」
と左右へ、羽織の紐の断《き》れるばかり大手を拡げ、寛濶《かんかつ》な胸を反らすと、
「二よ。」と、庄屋殿が鉄砲二つ、ぬいと前へ突出いて、励ますごとく呵々《からから》と弥次郎兵衛、
「これ、その位な事は出来よう。いや、それも度胸だな。見た処、そのように気が弱くては、いかな事も遣《やっ》つけられまい、可哀相に。」と声が掠《かす》れる。
「あの……私が、自分から、言います事は出来ません、お恥《はずか》しいのでございますが、舞の真似《まね》が少しばかり立てますの、それもただ一ツだけ。」
と云う顔を俯向《うつむ》いて、恥かしそうにまた手を支《つ》く。
「舞えるかえ、舞えるのかえ。」
と女中は嬉しそうな声をして、
「おお、踊や言うで明かんのじゃ。舞えるのなら立っておくれ。このお座敷、遠慮は入《い》らん。待ちなはれ、地が要ろう。これ喜野、あすこの広間へ行ってな、内の千がそう言うたて、誰でも弾けるのを借りて来やよ。」
とぽんとしていた小女の喜野が立とうとする、と、名告《なの》ったお千が、打傾いて、優しく口許をちょいと曲げて傾いて、
「待って、待って、」
十七
「いつもと違う。……一度軍隊へ行きなさると、日曜でのうては出られぬ、……お国のためやで、馴《な》れぬ苦労もしなさんす。新兵さんの送別会や。女衆が大勢居ても、一人抜けてもお座敷が寂しくなるもの。
可いわ、旅の恥は掻棄てを反対《あべこべ》なが、一泊りのお客さんの前、私が三味線を掻廻そう。お三重さん、立つのは何? 有るものか、無いものか言うも行過ぎた……有るものとて無いけれど、どうにか間に合わせたいものではある。」
「あら、姉さん。」
と、三味線取りに立とうとした、お千の膝を、袖で圧《おさ》えて、ちとはなじろんだ、お三重の愛嬌《あいきょう》。
「糸に合うなら踊ります。あのな、私のはな、お能の舞の真似なんです。」と、言いも果てず、お千の膝に顔を隠して、小父者《おじご》と捻平に背向《そがい》になった初々しさ。包ましやかな姿ながら、身を揉《も》む姿の着崩れして、袖を離れて畳に長い、襦袢の袖は媚《なまめ》かしい。
「何、その舞を舞うのかい。」と弥次郎兵衛は一言云う。
捻平膝の本をばったり伏せて、
「さて、飲もう。手酌でよし。ここで舞なぞは願い下げじゃ。せめてお題目の太鼓にさっしゃい。ふあはははは、」となぜか皺枯《しわが》れた高笑い、この時ばかり天井に哄《どっ》と響いた。
「捻平さん、捻さん。」
「おお。」
と不性《ぶしょう》げにやっと応《こた》える。
「何も道中の話の種じゃ、ちょっと見物をしようと思うね。」
「まず、ご免じゃ。」
「さらば、其許《そのもと》は目を瞑《ねむ》るだ。」
「ええ、縁起の悪い事を言わさる。……明日にも江戸へ帰って、可愛い孫娘の顔を見るまでは、死んでもなかなか目は瞑《ねむ》らぬ。」
「さてさて捻《ねじ》るわ、ソレそこが捻平さね。勝手になされ。さあ、あの娘《こ》立ったり、この爺様《じいさま》に遠慮は入らぬぞ。それ、何にも芸がないと云うて肩腰をさすろうと卑下をする。どんな真似でも一つ遣れば、立派な芸者の面目《めんぼく》が立つ。祝儀取るにも心持が可《よ》かろうから、是非見たい。が、しかし心のままにしなよ、決して勤《つとめ》を強いるじゃないぞ。」
「あんなに仰有《おっしゃ》って下さるもの。さあ、どんな事するのや知らんが、まずうても大事ない、大事ない、それ、支度は入らぬかい。」
「あい、」
とわずかに身を起すと、紫の襟を噛《か》むように――ふっくりしたのが、あわれに窶《やつ》れた――頤《おとがい》深く、恥かしそうに、内懐《うちぶところ》を覗《のぞ》いたが、膚身《はだみ》に着けたと思わるる、……胸やや白き衣紋《えもん》を透かして、濃い紫の細い包、袱紗《ふくさ》の縮緬《ちりめん》が飜然《ひらり》と飜《かえ》ると、燭台に照って、颯《さっ》と輝く、銀の地の、ああ、白魚《しらうお》の指に重そうな、一本の舞扇。
晃然《きらり》とあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、玉簪《ぎょくさん》のごとく額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の出汐《でしお》の波の影、静《しずか》に照々《てらてら》と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。
また川口の汐加減《しおかげん》、隣の広間の人動揺《ひとどよ》めきが颯と退《ひ》く。
と見れば皎然《こうぜん》たる銀の地に、黄金の雲を散らして、紺青《こんじょう》の月、ただ一輪を描いたる、扇の影に声澄みて、
[#ここから2字下げ]
「――その時あま人|申様《もうすよう》、もしこのたまを取得たらば、この御子《みこ》を世継の御位《みくらい》になしたまえと申《もうし》しかば、子細《しさい》あらじと領承したもう、さて我子ゆえに捨ん命、露ほども惜《おし》からじと、千尋《ちひろ》のなわを腰につけ、もしこの玉をとり得たらば、このなわを動かすべし、その時人々ちからをそえ――」
[#ここで字下げ終わり]
と調子が緊《しま》って、
「……ひきあげたまえと約束し、一《ひとつ》の利剣を抜持って、」
と扇をきりりと袖を直す、と手練《てだれ》ぞ見ゆる、自《おのず》から、衣紋の位に年|長《た》けて、瞳を定めたその顔《かんばせ》。硝子《がらす》戸越に月さして、霜の川浪|照添《てりそ》う俤《おもかげ》。膝|立据《たてす》えた畳にも、燭台《しょくだい》の花颯と流るる。
「ああ、待てい。」
と捻平、力の籠《こも》った声を掛けた。
十八
で、火鉢をずっと傍《そば》へ引いて、
「女中、もちっとこれへ火をおくれ。いや、立つに及ばん。その、鉄瓶をはずせば可《よ》し。」と捻平がいいつける。
この場合なり、何となく、お千も起居《たちい》に身体《からだ》が緊《しま》った。
静《しずか》に炭火を移させながら、捻平は膝をずらすと、革鞄《かばん》などは次の室《ま》へ……それだけ床の間に差置いた……車の上でも頸《うなじ》に掛けた風呂敷包を、重いもののように両手で柔《やわら》かに取って、膝の上へ据えながら、お千の顔を除《よ》けて、火鉢の上へ片手を裏表かざしつつ、
「ああ、これ、お三重さんとか言うの、そのお娘《こ》、手を上げられい。さ、手を上げて、」
と言う。……お三重は利剣で立とうとしたのを、慌《あわただ》しく捻平に留められたので、この時まで、差開いたその舞扇が、唇の花に霞むまで、俯向《うつむ》いた顔をひたと額につけて、片手を畳に支《つ》いていた。こう捻平に声懸けられて、わずかに顔を振上げながら、きりきりと一まず閉じると、その扇を畳むに連れて、今まで、濶《かっ》と瞳を張って見据えていた眼《まなこ》を、次第に塞《ふさ》いだ弥次郎兵衛は、ものも言わず、火鉢のふちに、ぶるぶると震う指を、と支えた態《なり》の、巻莨《まきたばこ》から、音もしないで、ほろほろと灰がこぼれる。
捻平|座蒲団《さぶとん》を一膝《ひとひざ》出て、
「いや、更《あらた》めて、熟《とく》と、見せてもらおうじゃが、まずこっちへ寄らしゃれ。ええ、今の謡《うたい》の、気組みと、その形《かた》。教えも教えた、さて、習いも習うたの。
こうまでこれを教うるものは、四国の果《はて》にも他《ほか》にはあるまい。あらかた人は分ったが、それとなく音信《たより》も聞きたい。の、其許《そこ》も黙って聞かっしゃい。」
と弥次が方《かた》に、捻平|目遣《めづか》いを一つして、
「まず、どうして、誰から、御身《おみ》は習うたの。」
「はい、」
と弱々と返事した。お三重はもう、他愛《たわい》なく娘になって、ほろりとして、
「あの、前刻《さっき》も申しましたように、不器用も通越した、調子はずれ、その上覚えが悪うござんして、長唄の宵や待ちの三味線《さみせん》のテンもツンも分りません。この間まで居《お》りました、山田の新町の姉さんが、朝と昼と、手隙《てすき》な時は晩方も、日に三度ずつも、あの噛《か》んで含めて、胸を割って刻込むように教えて下すったんでございますけれど、自分でも悲しい。……暁の、とだけ十日かかって、やっと真似だけ弾けますと、夢になってもう手が違い、心では思いながら、三の手が一へ滑《すべ》って、とぼけたような音《ね》がします。
撥《ばち》で咽喉《のど》を引裂かれ、煙管《きせる》で胸を打たれたのも、糸を切った数より多い。
それも何も、邪険でするのではないのです。……私が、な、まだその前に、鳥羽《とば》の廓《くるわ》に居ました時、……」
「ああ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。」
と弥次郎兵衛がフト聞入れた。
「いえ、私はな、やっぱりお伊勢なんですけれど、父《おとっ》さんが死《な》くなりましてから、継母《ままはは》に売られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のように違います。――お客の言うことを聞かぬ言うて、陸《おか》で悪くば海で稼げって、崕《がけ》の下の船着《ふなつき》から、夜になると、男衆に捉《つかま》えられて、小船に積まれて海へ出て、月があっても、島の蔭の暗い処を、危いなあ、ひやひやする、木の葉のように浮いて歩行《ある》いて、寂《しん》とした海の上で……悲しい唄を唄います。そしてお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が恋しゅうなる禁厭《まじない》じゃ、お茶挽《ちゃひ》いた罰、と云って、船から海へ、びしゃびしゃと追下ろして、汐《しお》の干た巌《いわ》へ上げて、巌の裂目へ俯向《うつむ》けに口をつけさして、(こいし、こいし。)と呼ばせます。若い衆は舳《へさき》に待ってて、声が切れると、栄螺《さざえ》の殻をぴしぴしと打着《ぶッつ》けますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私のそれは、師走から、寒の中《うち》で、八百|八島《やしま》あると言う、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、巌の角は針のような、あの、その上で、(こいし、こいし。)って、唇の、しびれるばかり泣いている。咽喉《のど》は裂け
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング