るかい。)とここで実は様子を聞く気さ。押懸けて行《ゆ》こうたってちっとも勝手が知れないから。
(先生様かね、いらっしゃります。)と何と、(的等。)の一人に、先生を、しかも、様づけに呼ぶだろう。
(実は、その人の何を、一つ、聞きたくって来たんだが、誰が行っても頼まれてくれるだろうか。)と尋ねると、大熨斗《おおのし》を書いた幕の影から、色の蒼《あお》い、鬢《びん》の乱れた、痩《や》せた中年増《ちゅうどしま》が顔を出して、(知己《ちかづき》のない、旅の方にはどうか知らぬ、お望《のぞみ》なら、内から案内して上げましょうか。)と言う。
 茶代を奮発《はず》んで、頼むと言った。
(案内して上げなはれ、可《い》い旦那や、気を付けて、)と目配《めくばせ》をする、……と雑作はない、その塗ったのが、いきなり、欄干を跨《また》いで出る奴さ。」

       十四

「両袖で口を塞《ふさ》いで、風の中を俯向《うつむ》いて行《ゆ》く。……その女の案内で、つい向う路地を入ると、どこも吹附けるから、戸を鎖《さ》したが、怪しげな行燈《あんどん》の煽《あお》って見える、ごたごたした両側の長屋の中に、溝板《どぶいた》の広い、格子戸造りで、この一軒だけ二階屋。
 軒に、御手軽|御料理《おんりょうり》としたのが、宗山先生の住居《すまい》だった。
(お客様。)と云う女の送りで、ずッと入る。直ぐそこの長火鉢を取巻いて、三人ばかり、変な女が、立膝やら、横坐りやら、猫板に頬杖やら、料理の方は隙《ひま》らしい。……上框《あがりかまち》の正面が、取着《とッつ》きの狭い階子段《はしごだん》です。
(座敷は二階かい、)と突然《いきなり》頬被《ほおかむり》を取って上ろうとすると、風立つので燈《あかり》を置かない。真暗《まっくら》だからちょっと待って、と色めいてざわつき出す。とその拍子に風のなぐれで、奴等の上の釣洋燈《つりランプ》がぱっと消えた。
 そこへ、中仕切《なかじきり》の障子が、次の室《ま》の燈《あかり》にほのめいて、二枚見えた。真中《まんなか》へ、ぱっと映ったのが、大坊主の額の出た、唇の大《おおき》い影法師。む、宗山め、居るな、と思うと、憎い事には……影法師の、その背中に掴《つか》まって、坊主を揉《も》んでるのが華奢《きゃしゃ》らしい島田|髷《まげ》で、この影は、濃く映った。
 火燧《マッチ》々々、と女どもが云う内に、
(えへん)と咳《せきばらい》を太くして、大《おおき》な手で、灰吹を持上げたのが見えて、離れて煙管《きせる》が映る。――もう一倍、その時図体が拡がったのは、袖を開いたらしい。此奴《こいつ》、寝《ね》ん寝子《ねこ》の広袖《どてら》を着ている。
 やっと台洋燈を点《つ》けて、
(お待遠でした、さあ、)
 って二階へ。吹矢の店から送って来た女はと、中段からちょっと見ると、両膝をずしりと、そこに居た奴の背後《うしろ》へ火鉢を離れて、俯向《うつむ》いて坐った。
(あの娘《こ》で可《い》いのかな、他《ほか》にもござりますよって。)
 と六畳の表座敷で低声で言うんだ。――ははあ、商売も大略《あらまし》分った、と思うと、其奴《そいつ》が
(お誂《あつらえ》は。)
 と大《おおき》な声。
(あっさりしたものでちょっと一口。そこで……)
 実は……御主人の按摩さんの、咽喉《のど》が一つ聞きたいのだ、と話した。
(咽喉?)……と其奴がね、異《おつ》に蔑《さげす》んだ笑い方をしたものです。
(先生様の……でござりますか、早速そう申しましょう。)
 で、地獄の手曳《てびき》め、急に衣紋繕《えもんづくろ》いをして下りる。しばらくして上って来た年紀《とし》の少《わか》い十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが芥溜《はきだめ》に水仙です、鶴です。帯も襟も唐縮緬《とうちりめん》じゃあるが、もみじのように美しい。結綿《いいわた》のふっくりしたのに、浅葱《あさぎ》鹿《か》の子の絞高《しぼだか》な手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お膝許《ひざもと》で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、鯰《なまず》の鰭《ひれ》で濁ろう、と可哀《あわれ》に思う。この娘が紫の袱紗《ふくさ》に載《の》せて、薄茶を持って来たんです。
 いや、御本山の御見識、その咽喉《のど》を聞きに来たとなると……客にまず袴《はかま》を穿《は》かせる仕向《しむけ》をするな、真剣勝負面白い。で、こっちも勢《いきおい》、懐中《ふところ》から羽織を出して着直したんだね。
 やがて、また持出した、杯《さかずき》というのが、朱塗に二見ヶ浦を金蒔絵《きんまきえ》した、杯台に構えたのは凄《すご》かろう。
(まず一ツ上って、こっちへ。)
 と按摩の方から、この杯の指図をする。その工合が、謹んで聞け、といった、頗《すこぶ》る権高なものさ。どかりとそこへ構え込んだ。その容子《ようす》が膝も腹もずんぐりして、胴中《どうなか》ほど咽喉《のど》が太い。耳の傍《わき》から眉間《みけん》へ掛けて、小蛇のように筋が畝《うね》くる。眉が薄く、鼻がひしゃげて、ソレその唇の厚い事、おまけに頬骨がギシと出て、歯を噛《か》むとガチガチと鳴りそう。左の一眼べとりと盲《し》い、右が白眼《しろまなこ》で、ぐるりと飜《かえ》った、しかも一面、念入の黒痘瘡《くろあばた》だ。
 が、争われないのは、不具者《かたわ》の相格《そうごう》、肩つきばかりは、みじめらしくしょんぼりして、猪《い》の熊入道もがっくり投首の抜衣紋《ぬきえもん》で居たんだよ。」

       十五

「いえな、何も私が意地悪を言うわけではないえ。」
 と湊屋の女中、前垂の膝を堅くして――傍《かたわら》に柔かな髪の房《ふっさ》りした島田の鬢《びん》を重そうに差俯向《さしうつむ》く……襟足白く冷たそうに、水紅色《ときいろ》の羽二重《はぶたえ》の、無地の長襦袢《ながじゅばん》の肩が辷《すべ》って、寒げに脊筋の抜けるまで、嫋《なよ》やかに、打悄《うちしお》れた、残んの嫁菜花《よめな》の薄紫、浅葱《あさぎ》のように目に淡い、藤色|縮緬《ちりめん》の二枚着で、姿の寂しい、二十《はたち》ばかりの若い芸者を流盻《しりめ》に掛けつつ、
「このお座敷は貰《もろ》うて上げるから、なあ和女《あんた》、もうちゃっと内へお去《い》にや。……島家の、あの三重《みえ》さんやな、和女、お三重さん、お帰り!」
 と屹《きっ》と言う。
「お前さんがおいでやで、ようお客さんの御機嫌を取ってくれるであろうと、小女《こおんな》ばかり附けておいて、私が勝手へ立違うている中《うち》や、……勿体ない、お客たちの、お年寄なが気に入らぬか、近頃山田から来た言うて、こちの私の許《とこ》を見くびったか、酌をせい、と仰有《おっしゃ》っても、浮々《うきうき》とした顔はせず……三味線《さみせん》聞こうとおっしゃれば、鼻の頭《さき》で笑うたげな。傍《そば》に居た喜野が見かねて、私の袖を引きに来た。
 先刻《さっき》から、ああ、こうと、口の酸くなるまで、機嫌を取るようにして、私が和女の調子を取って、よしこの一つ上方唄でも、どうぞ三味線の音《ね》をさしておくれ。お客様がお寂しげな、座敷が浮かぬ、お見やんせ、蝋燭《ろうそく》の灯も白けると、頼むようにして聞かいても、知らぬ、知らぬ、と言通す。三味線は和女、禁物か。下手や言うて、知らぬ云うて、曲《まがり》なりにもお座つき一つ弾けぬ芸妓《げいこ》がどこにある。
 よう、思うてもお見。平の座敷か、そでないか。貴客《あなた》がたのお人柄を見りゃ分るに、何で和女、勤める気や。私が済まぬ。さ、お立ち。ええ、私が箱を下げてやるから。」
 と優しいのがツンと立って、襖際《ふすまぎわ》に横にした三味線を邪険に取って、衝《つ》と縦様《たてざま》に引立てる。
「ああれ。」
 はっと裳《もすそ》を摺《す》らして、取縋《とりすが》るように、女中の膝を竊《そっ》と抱き、袖を引き、三味線を引留めた。お三重の姿は崩るるごとく、芍薬《しゃくやく》の花の散るに似て、
「堪忍して下さいまし、堪忍して、堪忍して、」と、呼吸《いき》の切れる声が湿《うる》んで、
「お客様にも、このお内へも、な、何で私が失礼しましょう。ほんとに、あの、ほんとに三味線は出来ませんもの、姉さん、」
 と言《ことば》が途絶えた。……
「今しがたも、な、他家《よそ》のお座敷、隅の方に坐っていました。不断ではない、兵隊さんの送別会、大陽気に騒ぐのに、芸のないものは置かん、衣服《きもの》を脱いで踊るんなら可《よし》、可厭《いや》なら下げると……私一人帰されて、主人の家《うち》へ戻りますと、直ぐに酷《ひど》いめに逢いました、え。
 三味線も弾けず、踊りも出来ぬ、座敷で衣物《きもの》が脱げないなら、内で脱げ、引剥《ひっぱ》ぐと、な、帯も何も取られた上、台所で突伏《つッぷ》せられて、引窓をわざと開けた、寒いお月様のさす影で、恥かしいなあ、柄杓《ひしゃく》で水を立続けて乳へも胸へもかけられましたの。
 こちらから、あの、お座敷を掛けて下さいますと、どうでしょう、炬燵《こたつ》で温《あたた》めた襦袢《じゅばん》を着せて、東京のお客じゃそうなと、な、取って置きの着物を出して、よう勤めて帰れや言うて、御主人が手で、駒下駄まで出すんです。
 勤めるたって、どうしましょう……踊は立って歩行《ある》くことも出来ませんし、三味線は、それが姉さん、手を当てれば誰にだって、音のせぬ事はないけれど、弾いて聞かせとおっしゃるもの、どうして私唄えます。……
 不具《かたわ》でもないに情《なさけ》ない。調子が自分で出来ません。何をどうして、お座敷へ置いて頂けようと思いますと、気が怯《ひ》けて気が怯けて、口も満足利けませんから、何が気に入らないで、失礼な顔をすると、お思い遊ばすのも無理はない、なあ。……
 このお家へは、お台所で、洗い物のお手伝をいたします。姉さん、え、姉さん。」
 と袖を擦《さす》って、一生懸命、うるんだ目許《めもと》を見得もなく、仰向《あおむ》けになって女中の顔。……色が見る見る柔《やわら》いで、突いて立った三味線の棹《さお》も撓《たわ》みそうになった、と見ると、二人の客へ、向直った、ふっくりとある綾《あや》の帯の結目《むすびめ》で、なおその女中の袂《たもと》を圧《おさ》えて。……

       十六

 お三重は、そして、更《あらた》めて二箇《ふたり》の老人に手を支《つ》いた。
「芸者でお呼び遊ばした、と思いますと……お役に立たず、極《きま》りが悪うございまして、お銚子《ちょうし》を持ちますにも手が震えてなりません。下婢《おさん》をお傍《そば》へお置き遊ばしたとお思いなさいまして、お休みになりますまでお使いなすって下さいまし。お背中を敲《たた》きましょう、な、どうぞな、お肩を揉《も》まして下さいまし。それなら一生懸命にきっと精を出します。」
 と惜気《おしげ》もなく、前髪を畳につくまで平伏《ひれふ》した。三指づきの折かがみが、こんな中でも、打上る。
 本を開いて、道中の絵をじろじろと黙って見ていた捻平が、重くるしい口を開けて、
「子孫末代よい意見じゃ、旅で芸者を呼ぶなぞは、のう、お互に以後謹もう……」と火箸に手を置く。
 所在なさそうに半眼で、正面《まとも》に臨風榜可小楼《りんぷうぼうかしょうろう》を仰ぎながら、程を忘れた巻莨《まきたばこ》、この時、口許へ火を吸って、慌てて灰へ抛《ほう》って、弥次郎兵衛は一つ咽《む》せた。
「ええ、いや、女中、……追って祝儀はする。ここでと思うが、その娘《こ》が気が詰《つま》ろうから、どこか小座敷へ休まして皆《みんな》で饂飩でも食べてくれ。私が驕《おご》る。で、何か面白い話をして遊ばして、やがて可《い》い時分に帰すが可い。」と冷くなった猪口《ちょこ》を取って、寂しそうに衝《つ》と飲んだ。
 女中は、これよりさき、支《つ》いて突立《つッた》ったその三味線を、次の室《ま》の暗い方へ密《そっ》と押
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