かりぶね》の帆柱がすくすくと垣根に近い。そこに燭台を傍《かたわら》にして、火桶《ひおけ》に手を懸け、怪訝《けげん》な顔して、
「はて、お早いお着きお草臥《くたび》れ様で、と茶を一ツ持って出て、年増《としま》の女中が、唯今《ただいま》引込《ひっこ》んだばかりの処。これから膳にもしよう、酒にもしようと思うちょっとの隙間へ、のそりと出した、あの面《つら》はえ?……
 この方、あの年増めを見送って、入交《いりかわ》って来るは若いのか、と前髪の正面でも見ようと思えば、霜げた冬瓜《とうがん》に草鞋《わらじ》を打着《ぶちつ》けた、という異体な面《つら》を、襖《ふすま》の影から斜《はす》に出して、
(按摩でやす。)とまた、悪く抜衣紋《ぬきえもん》で、胸を折って、横坐りに、蝋燭火《ろうそくび》へ紙火屋《かみぼや》のかかった灯《あかり》の向うへ、ぬいと半身で出た工合が、見越入道《みこしにゅうどう》の御館《おやかた》へ、目見得《めみえ》の雪女郎を連れて出た、化《ばけ》の慶庵と言う体《てい》だ。
 要らぬと言えば、黙然《だんまり》で、腰から前《さき》へ、板廊下の暗い方へ、スーと消えたり……怨敵《おんてき》、退散《たいさん》。」
 と苦笑いして、……床の正面に火桶を抱えた、法然天窓《ほうねんあたま》の、連《つれ》の、その爺様を見遣って、
「捻平さん、お互に年は取りたくないてね。ちと三絃《ぺんぺん》でも、とあるべき処を、お膳の前に按摩が出ますよ。……見くびったものではないか。」
「とかく、その年効《としが》いもなく、旅籠屋の式台口から、何んと、事も慇懃《いんぎん》に出迎えた、家《うち》の隠居らしい切髪の婆様《ばあさま》をじろりと見て、
(ヤヤ、難有《ありがた》い、仏壇の中に美婦《たぼ》が見えるわ、簀《す》の子の天井から落ち度《た》い。)などと、膝栗毛の書抜きを遣らっしゃるで魔が魅《さ》すのじゃ、屋台は古いわ、造りも広大。」
 と丸木の床柱を下から見上げた。
「千年の桑かの。川の底も料《はか》られぬ。燈《あかり》も暗いわ、獺《かわうそ》も出ようず。ちと懲《こ》りさっしゃるが可《い》い。」
「さん候《ぞうろう》、これに懲りぬ事なし。」
 と奥歯のあたりを膨らまして微笑《ほほえ》みながら、両手を懐に、胸を拡く、襖《ふすま》の上なる額を読む。題して曰《いわ》く、臨風榜可小楼《りんぷうぼうかしょうろう》。
「……とある、いかさまな。」
「床に活《い》けたは、白の小菊じゃ、一束《ひとたば》にして掴《つか》みざし、喝采《おお》。」と讃《ほ》める。
「いや、翁寂《おきなさ》びた事を言うわ。」
「それそれ、たったいま懲りると言うた口の下から、何んじゃ、それは。やあ、見やれ、其許《そこ》の袖口から、茶色の手の、もそもそとした奴《やつ》が、ぶらりと出たわ、揖斐川の獺《かわうそ》の。」
「ほい、」
 と視《なが》めて、
「南無三宝《なむさんぼう》。」と慌《あわただ》しく引込《ひッこ》める。
「何んじゃそれは。」
「ははははは、拙者うまれつき粗忽《そこつ》にいたして、よくものを落す処から、内の婆《ばばあ》どのが計略で、手袋を、ソレ、ト左右糸で繋《つな》いだものさね。袖から胸へ潜《くぐ》らして、ずいと引張《ひっぱ》って両手へ嵌《は》めるだ。何んと恐しかろう。捻平さん、かくまで身上《しんしょう》を思うてくれる婆どのに対しても、無駄な祝儀は出せませんな。ああ、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。」
「狸《たぬき》めが。」
 と背を円くして横を向く。
「それ、年増が来る。秘すべし、秘すべし。」
 で、手袋をたくし込む。
 処へ女中が手を支《つ》いて、
「御支度をなさりますか。」
「いや、やっと、今|草鞋《わらじ》を解いたばかりだ。泊めてもらうから、支度はしません。」と真面目に言う。
 色は浅黒いが容子《ようす》の可《い》い、その年増の女中が、これには妙な顔をして、
「へい、御飯は召あがりますか。」
「まず酒から飲みます。」
「あの、めしあがりますものは?」
「姉さん、ここは約束通り、焼蛤《やきはまぐり》が名物だの。」

       七

「そのな、焼蛤は、今も町はずれの葦簀張《よしずばり》なんぞでいたします。やっぱり松毬《まつかさ》で焼きませぬと美味《おいし》うござりませんで、当家《うち》では蒸したのを差上げます、味淋《みりん》入れて味美《あじよ》う蒸します。」
「ははあ、栄螺《さざえ》の壺焼《つぼやき》といった形、大道店で遣りますな。……松並木を向うに見て、松毬のちょろちょろ火、蛤の煙がこの月夜に立とうなら、とんと竜宮の田楽《でんがく》で、乙姫様《おとひめさま》が洒落《しゃれ》に姉《あね》さんかぶりを遊ばそうという処、また一段の趣《おもむき》だろうが、わざとそれがために忍んでも出られまい。……当家《ここ》の味淋蒸、それが好《よ》かろう。」
 と小父者《おじご》納得した顔して頷《うなず》く。
「では、蛤でめしあがりますか。」
「何?」と、わざとらしく[#「わざとらしく」は底本では「わざとしらく」]耳を出す。
「あのな、蛤であがりますか。」
「いや、箸《はし》で食いやしょう、はははは。」
 と独《ひとり》で笑って、懐中から膝栗毛の五編を一冊、ポンと出して、
「難有《ありがた》い。」と額を叩く。
 女中も思わず噴飯《ふきだ》して、
「あれ、あなたは弥次郎兵衛様でございますな。」
「その通り。……この度の参宮には、都合あって五二館と云うのへ泊ったが、内宮様《ないぐうさま》へ参る途中、古市《ふるいち》の旅籠屋、藤屋の前を通った時は、前度いかい世話になった気で、薄暗いまで奥深いあの店頭《みせさき》に、真鍮《しんちゅう》の獅噛火鉢《しかみひばち》がぴかぴかとあるのを見て、略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辞儀をして来た。が、町が狭いので、向う側の茶店の新姐《しんぞ》に、この小兀《すこはげ》を見せるのが辛かったよ。」
 と燈《あかり》に向けて、てらりと光らす。
「ほほ、ほほ。」
「あはは。」
 で捻平も打笑うと、……この機会に誘われたか、――先刻《さっき》二人が着いた頃には、三味線太鼓で、トトン、ジャカジャカじゃじゃじゃんと沸返るばかりだった――ちょうど八ツ橋形に歩行《あゆみ》板が架《かか》って、土間を隔てた隣の座敷に、およそ十四五人の同勢で、女交りに騒いだのが、今しがた按摩が影を見せた時分から、大河《おおかわ》の汐《しお》に引かれたらしく、ひとしきり人気勢《ひとけはい》が、遠くへ裾拡がりに茫《ぼう》と退《の》いて、寂《しん》とした。ただだだっ広い中を、猿が鳴きながら走廻るように、キャキャとする雛妓《おしゃく》の甲走《かんばし》った声が聞えて、重く、ずっしりと、覆《おっ》かぶさる風に、何を話すともなく多人数《たにんず》の物音のしていたのが、この時、洞穴《ほらあな》から風が抜けたように哄《どっ》と動揺《どよ》めく。
 女中も笑い引きに、すっと立つ。
「いや、この方は陰々としている。」
「その方が無事で可いの。」
 と捻平は火桶の上へ脊くぐまって、そこへ投出した膝栗毛を差覗《さしのぞ》き、
「しかし思いつきじゃ、私《わし》はどうもこの寝つきが悪いで、今夜は一つ枕許《まくらもと》の行燈《あんどん》で読んでみましょう。」
「止《よ》しなさい、これを読むと胸が切《せま》って、なお目が冴えて寝られなくなります。」
「何を言わっしゃる、当事《あてごと》もない、膝栗毛を見て泣くものがあろうかい。私《わし》が事を言わっしゃる、其許《そこ》がよっぽど捻平じゃ。」
 と言う処へ、以前の年増に、小女《こおんな》がついて出て、膳と銚子を揃えて運んだ。
「蛤は直《じ》きに出来ます。」
「可《よし》、可。」
「何よりも酒の事。」
 捻平も、猪口《ちょこ》を急ぐ。
「さて汝《てめえ》にも一つ遣ろう。燗《かん》の可い処を一杯遣らっし。」と、弥次郎兵衛、酒飲みの癖で、ちとぶるぶるする手に一杯傾けた猪口《ちょこ》を、膳の外へ、その膝栗毛の本の傍《わき》へ、畳の上にちゃんと置いて、
「姉さん、一つ酌《つ》いでやってくれ。」
 と真顔で言う。
 小女が、きょとんとした顔を見ると、捻平に追っかけの酌をしていた年増が見向いて、
「喜野《きの》、お酌ぎ……その旦那はな、弥次郎兵衛様じゃで、喜多八さんにお杯を上げなさるんや。」
 と早や心得たものである。

       八

 小父者《おじご》はなぜか調子を沈めて、
「ああ、よく言った。俺《おれ》を弥次郎兵衛は難有《ありがた》い。居心《いごころ》は可《よし》、酒は可。これで喜多八さえ一所だったら、膝栗毛を正《しょう》のもので、太平の民となる処を、さて、杯をさしたばかりで、こう酌《つ》いだ酒へ、蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》のちらちらと映る処は、どうやら餓鬼に手向《たむ》けたようだ。あのまた馬鹿野郎はどうしている――」と膝に手を支《つ》き、畳の杯を凝《じっ》と見て、陰気な顔する。
 捻平も、ふと、この時横を向いて腕組した。
「旦那、その喜多八さんを何んでお連れなさりませんね。」
 と愛嬌造《あいきょうづく》って女中は笑う。弥次郎|寂《さみ》しく打笑み、
「むむ、そりゃ何よ、その本の本文にある通り、伊勢の山田ではぐれた奴さ。いい年をして娑婆気《しゃばっけ》な、酒も飲めば巫山戯《ふざけ》もするが、世の中は道中同然。暖いにつけ、寒いにつけ、杖《つえ》柱とも思う同伴《つれ》の若いものに別れると、六十の迷児《まいご》になって、もし、この辺に棚からぶら下がったような宿屋はござりませんかと、賑《にぎや》かな町の中を独りとぼとぼと尋ね飽倦《あぐ》んで、もう落胆《がっかり》しやした、と云ってな、どっかり知らぬ家《うち》の店頭《みせさき》へ腰を落込《おとしこ》んで、一服無心をした処……あすこを読むと串戯《じょうだん》ではない。……捻平さん、真からもって涙が出ます。」
 と言う、瞼《まぶた》に映って、蝋燭の火がちらちらとする。
「姉や、心《しん》を切ったり。」
「はい。」
 と女中が向うを向く時、捻平も目をしばたたいたが、
「ヤ、あの騒ぎわい。」
 と鼻の下を長くして、土間|越《ごし》の隣室《となり》へ傾き、
「豪《えら》いぞ、金盥《かなだらい》まで持ち出いたわ、人間は皆裾が天井へ宙乗りして、畳を皿小鉢が躍るそうな。おおおお、三味線太鼓が鎬《しのぎ》を削って打合う様子じゃ。」
「もし、お騒がしゅうござりましょう、お気の毒でござります。ちょうど霜月でな、今年度の新兵さんが入営なさりますで、その送別会じゃ言うて、あっちこっち、皆、この景気でござります。でもな、お寝《よ》ります時分には時間になるで静まりましょう。どうぞ御辛抱なさいまして。」
「いやいや、それには及ばぬ、それには及ばぬ。」
 と小父者、二人の女中の顔へ、等分に手を掉《ふ》って、
「かえって賑かで大きに可い。悪く寂寞《ひっそり》して、また唐突《だしぬけ》に按摩に出られては弱るからな。」
「へい、按摩がな。」と何か知らず、女中も読めぬ顔して聞返す。
 捻平この話を、打消すように咳《しわぶき》して、
「さ、一献《いっこん》参ろう。どうじゃ、こちらへも酌人をちと頼んで、……ええ、それ何んとか言うの。……桑名の殿様|時雨《しぐれ》でお茶漬……とか言う、土地の唄でも聞こうではないかの。陽気にな、かっと一つ。旅の恥は掻棄《かきす》てじゃ。主《ぬし》はソレ叱言《こごと》のような勧進帳でも遣らっしゃい。
 染めようにも髯《ひげ》は無いで、私《わし》はこれ、手拭でも畳んで法然天窓《ほうねんあたま》へ載《の》せようでの。」と捻平が坐りながら腰を伸《の》して高く居直る。と弥次郎|眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「や、平家以来の謀叛《むほん》、其許《そこ》の発議は珍らしい、二方荒神鞍《にほうこうじんくら》なしで、真中《まんなか》へ乗りやしょう。」
 と夥《おびただ》しく景気を直して、
「姉《あんね》え、何んでも構わん、四五人|木遣《き
前へ 次へ
全10ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング