物優しく、
「串戯《じょうだん》だ、強請《ゆする》んじゃありません。こっちが客だよ、客なんですよ。」
細長い土間の一方は、薄汚れた縦に六畳ばかりの市松畳、そこへ上れば坐れるのを、釜に近い、床几《しょうぎい》の上に、ト足を伸ばして、
「どうもね、寒くって堪《たま》らないから、一杯|御馳走《ごちそう》になろうと思って。ええ、親方、決してその御迷惑を掛けるもんじゃありません。」
で、優柔《おとな》しく頬被りを取った顔を、と見ると迷惑どころかい、目鼻立ちのきりりとした、細面《ほそおもて》の、瞼《まぶた》に窶《やつれ》は見えるけれども、目の清らかな、眉の濃い、二十八九の人品《ひとがら》な兄哥《あにい》である。
「へへへへ、いや、どうもな、」
と亭主は前へ出て、揉手《もみで》をしながら、
「しかし、このお天気続きで、まず結構でござりやすよ。」と何もない、煤《すす》けた天井を仰ぎ仰ぎ、帳場の上の神棚へ目を外《そ》らす。
「お師匠さん、」
女房前垂をちょっと撫《な》でて、
「お銚子《ちょうし》でございますかい。」と莞爾《にっこり》する。
門附は手拭の上へ撥《ばち》を置いて、腰へ三味線を小取廻《ことりまわ》し、内端《うちわ》に片膝を上げながら、床几の上に素足の胡坐《あぐら》。
ト裾《すそ》を一つ掻込《かいこ》んで、
「早速一合、酒は良いのを。」
「ええ、もう飛切りのをおつけ申しますよ。」と女房は土間を横歩行《よこある》き。左側の畳に据えた火鉢の中を、邪険に火箸《ひばし》で掻《か》い掘《ほじ》って、赫《かっ》と赤くなった処を、床几の門附へずいと寄せ、
「さあ、まあ、お当りなさりまし。」
「難有《ありがて》え、」
と鉄拐《てっか》に褄《つま》へ引挟《ひッぱさ》んで、ほうと呼吸《いき》を一つ長く吐《つ》いた。
「世の中にゃ、こんな炭火があると思うと、里心が付いてなお寒い。堪《たま》らねえ。女房《おかみ》さん、銚子をどうかね、ヤケという熱燗《あつかん》にしておくんなさい。ちっと飲んで、うんと酔おうという、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、ええ、親方。」
「へへへ、お方《かた》、それ極熱《ごくあつ》じゃ。」
女房は染めた前歯を美しく、
「あいあい。」
四
「時に何かね、今|此家《ここ》の前を車が二台、旅の人を乗せて駈抜《かけぬ》けたっけ、この町を、……」
と干した猪口《ちょく》で門《かど》を指して、
「二三町行った処で、左側の、屋根の大きそうな家へ着けたのが、蒼《あお》く月明りに見えたがね、……あすこは何かい、旅籠屋《はたごや》ですか。」
「湊屋《みなとや》でございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。
「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名代《なだい》で。前《せん》には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな家《うち》じゃに、奥座敷の欄干《てすり》の外が、海と一所の、大《いか》い揖斐《いび》の川口《かわぐち》じゃ。白帆の船も通りますわ。鱸《すずき》は刎《は》ねる、鯔《ぼら》は飛ぶ。とんと類のない趣《おもむき》のある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、獺《かわうそ》が這込《はいこ》んで、板廊下や厠《かわや》に点《つ》いた燈《あかり》を消して、悪戯《いたずら》をするげに言います。が、別に可恐《おそろし》い化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩《はちたた》きをして見せる。……時雨《しぐ》れた夜さりは、天保銭《てんぽうせん》一つ使賃で、豆腐を買いに行《ゆ》くと言う。それも旅の衆の愛嬌《あいきょう》じゃ言うて、豪《えら》い評判の好《い》い旅籠屋ですがな、……お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。」
「あい、昨夜《ゆうべ》初めてこっちへ流込んで来たばかりさ。一向方角も何も分らない。月夜も闇《やみ》の烏さね。」
と俯向《うつむ》いて、一口。
「どれ延びない内、底を一つ温めよう、遣《や》ったり! ほっ、」
と言って、目を擦《こす》って面《おもて》を背けた。
「利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。こう、親方の前だがね、ついこないだもこの手を食ったよ、料簡《りょうけん》が悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、鬼灯《ほおづき》の皮が精々だろう。利くものか、と高を括《くく》って、お銭《あし》は要らない薬味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上った。……また遣ったさ、色気は無えね、涙と涎《よだれ》が一時《いっとき》だ。」と手の甲で引擦《ひっこす》る。
女房が銚子のかわり目を、ト掌《てのひら》で燗《かん》を当った。
「お師匠さん、あんたは東の方《かた》ですなあ。」
「そうさ、生《うまれ》は東だが、身上《しんしょう》は北山さね。」と言う時、徳利の底を振って、垂々《たらたら》と猪口《ちょく》へしたむ。
「で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。」
それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の可《い》い顔色《かおつき》。
「御串戯《ごじょうだん》もんですぜ、泊りは木賃《きちん》と極《きま》っていまさ。茣蓙《ござ》と笠《かさ》と草鞋《わらじ》が留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……上旅籠《じょうはたご》の湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、女房《おかみ》さん。」
「こんなでよくば、泊めますわ。」
と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、
「滅相な。」と帳場を背負《しょ》って、立塞《たちふさ》がる体《てい》に腰を掛けた。いや、この時まで、紺の鯉口《こいぐち》に手首を縮《すく》めて、案山子《かかし》のごとく立ったりける。
「はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤油《おしたじ》の雨宿りか、鰹節《かつおぶし》の行者だろう。」
と呵々《からから》と一人で笑った。
「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。
「飛んでもない事、お忙しいに。」
「いえな、内じゃ芸妓屋《げいこや》さんへ出前ばかりが主《おも》ですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん佳《い》いお声ですな。なあ、良人《あんた》。」と、横顔で亭主を流眄《ながしめ》。
「さよじゃ。」
とばかりで、煙草《たばこ》を、ぱっぱっ。
「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」
五
「そう讃《ほ》められちゃお座が醒《さ》める、酔も醒めそうで遣瀬《やるせ》がない。たかが大道芸人さ。」
と兄哥《あにい》は照れた風で腕組みした。
「私がお世辞を言うものですかな、真実《まったく》ですえ。あの、その、なあ、悚然《ぞっ》とするような、恍惚《うっとり》するような、緊《し》めたような、投げたような、緩めたような、まあ、何《な》んと言うて可《よ》かろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んとも言いようのない心持になったのですえ。」
と、脊筋を曲《くね》って、肩を入れる。
「お方《かた》、お方。」
と急込《せきこ》んで、訳もない事に不機嫌な御亭《ごてい》が呼ばわる。
「何じゃいし。」と振向くと、……亭主いつの間にか、神棚の下《もと》に、斜《しゃ》と構えて、帳面を引繰《ひっく》って、苦く睨《にら》み、
「升屋《ますや》が懸《かけ》はまだ寄越さんかい。」
と算盤《そろばん》を、ぱちりぱちり。
「今時どうしたえ、三十日《みそか》でもありもせんに。……お師匠さん。」
「師匠じゃないわ、升屋が懸じゃい。」
「そないに急に気になるなら、良人《あんた》、ちゃと行って取って来《き》い。」
と下唇の刎調子《はねぢょうし》。亭主ぎゃふんと参った体《てい》で、
「二進が一進、二進が一進、二一《にいち》天作の五《ご》、五一三六七八九《ぐいちさぶろくななやあここの》。」と、饂飩の帳の伸縮《のびちぢ》みは、加減《さしひき》だけで済むものを、醤油《したじ》に水を割算段。
と釜の湯気の白けた処へ、星の凍《い》てそうな按摩《あんま》の笛。月天心《つきてんしん》の冬の町に、あたかもこれ凩《こがらし》を吹込む声す。
門附の兄哥《あにい》は、ふと痩《や》せた肩を抱いて、
「ああ、霜に響く。」……と言った声が、物語を読むように、朗《ほがらか》に冴《さ》えて、且つ、鋭く聞えた。
「按摩が通る……女房《おかみ》さん、」
「ええ、笛を吹いてですな。」
「畜生、怪《け》しからず身に染みる、堪《たま》らなく寒いものだ。」
と割膝に跪坐《かしこま》って、飲みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶりと土間へ、
「一ツこいつへ注《つ》いでおくんな、その方がお前さんも手数が要らない。」
「何んの、私はちっとも構うことないのですえ。」
「いや、御深切は難有《ありがた》いが、薬罐《やかん》の底へ消炭《けしずみ》で、湧《わ》くあとから醒《さ》める処へ、氷で咽喉《のど》を抉《えぐ》られそうな、あのピイピイを聞かされちゃ、身体《からだ》にひびっ裂《たけ》がはいりそうだ。……持って来な。」
と手を振るばかりに、一息にぐっと呷《あお》った。
「あれ、お見事。」
と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。沢山《たんと》、あの、心配する方があるのですやろ。」
「お方、八百屋の勘定は。」
と亭主|瞬《まばた》きして頤《あご》を出す。女房は面白半分、見返りもしないで、
「取りに来たらお払いやすな。」
「ええ……と三百は三銭かい。」
で、算盤を空に弾《はじ》く。
「女房《おかみ》さん。」
と呼んだ門附の声が沈んだ。
「何んです。」
「立続けにもう一つ。そして後《あと》を直ぐ、合点《がってん》かね。」
「あい。合点でございますが、あんた、豪《えら》い大酒《たいしゅ》ですな。」
「せめて酒でも参らずば。」
と陽気な声を出しかけたが、つと仰向《あおむ》いて眦《まなじり》を上げた。
「あれ、また来たぜ、按摩の笛が、北の方の辻から聞える。……ヤ、そんなにまだ夜は更けまいのに、屋根|越《ごし》の町一つ、こう……田圃《たんぼ》の畔《あぜ》かとも思う処でも吹いていら。」
と身忙《みぜわ》しそうに片膝立てて、当所《あてど》なく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みまわ》しながら、
「音《おと》は同じだが音《ね》が違う……女房《おかみ》さん、どれが、どんな顔《つら》の按摩だね。」
と聞く。……その時、白眼《しろまなこ》の座頭の首が、月に蒼《あお》ざめて覗《のぞ》きそうに、屋の棟を高く見た……目が鋭い。
「あれ、あんた、鹿の雌雄《めすおす》ではあるまいし、笛の音で按摩の容子《ようす》は分りませぬもの。」
「まったくだ。」
と寂しく笑った、なみなみ注《つ》いだる茶碗の酒を、屹《きっ》と見ながら、
「杯の月を酌《く》もうよ、座頭殿。」と差俯《さしうつむ》いて独言《ひとりごと》した。……が博多節の文句か、知らず、陰々として物寂しい、表の障子も裏透くばかり、霜の月の影冴えて、辻に、町に、按摩の笛、そのあるものは波に響く。
六
「や、按摩どのか。何んだ、唐突《だしぬけ》に驚かせる。……要らんよ。要りませぬ。」
と弥次郎兵衛。湊屋の奥座敷、これが上段の間とも見える、次に六畳の附いた中古《ちゅうぶる》の十畳。障子の背後《うしろ》は直ぐに縁、欄干《てすり》にずらりと硝子戸《がらすど》の外は、水煙渺《みずけむりびょう》として、曇らぬ空に雲かと見る、長洲《ながす》の端に星一つ、水に近く晃《き》らめいた、揖斐川の流れの裾《すそ》は、潮《うしお》を籠《こ》めた霧白く、月にも苫《とま》を伏せ、蓑《みの》を乾《ほ》す、繋船《か
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