やり》で曳《ひ》いて来い。」
と肩を張って大きに力む。
女中酌の手を差控えて、銚子を、膝に、と真直《まっすぐ》に立てながら、
「さあ、今あっちの座敷で、もう一人二人言うて、お掛けやしたが、喜野、芸妓《げいこ》さんはあったかな。」
小女が猪首《いくび》で頷《うなず》き、
「誰も居やはらぬ言うてでやんした。」
「かいな、旦那さん、お気の毒さまでござります。狭い土地に、数のない芸妓やによって、こうして会なんぞ立込《たてこ》みますと、目星《めぼし》い妓《こ》たちは、ちゃっとの間に皆《みんな》出払います。そうか言うて、東京のお客様に、あんまりな人も見せられはしませずな、容色《きりょう》が好《い》いとか、芸がたぎったとかいうのでござりませぬとなあ……」
「いや、こうなっては、宿賃を払わずに、こちとら夜遁《よにげ》をするまでも、三味線を聞かなきゃ納まらない。眇《めっかち》、いぐちでない以上は、古道具屋からでも呼んでくれ。」
「待ちなさりまし。おお、あの島屋の新妓《しんこ》さんならきっと居るやろ。聞いて見や。喜野、ソレお急ぎじゃ、廊下走って、電話へ掛《かか》れや。」
九
「持って来い、さあ、何んだ風車《かざぐるま》。」
急に勢《いきおい》の可《い》い声を出した、饂飩屋に飲む博多節の兄哥《あにい》は、霜の上の燗酒《かんざけ》で、月あかりに直ぐ醒《さ》める、色の白いのもそのままであったが、二三杯、呷切《あおっきり》の茶碗酒で、目の縁《ふち》へ、颯《さっ》と酔《よい》が出た。
「勝手にピイピイ吹いておれ、でんでん太鼓に笙《しょう》の笛、こっちあ小児《こども》だ、なあ、阿媽《おっか》。……いや、女房《おかみ》さん、それにしても何かね、御当処は、この桑名と云う所は、按摩の多い所かね。」と笛の音に瞳がちらつく。
「あんたもな、按摩の目は蠣《かき》や云います。名物は蛤《はまぐり》じゃもの、別に何も、多い訳はないけれど、ここは新地《しんち》なり、旅籠屋のある町やに因って、つい、あの衆《しゅ》が、あちこちから稼ぎに来るわな。」
「そうだ、成程|新地《くるわ》だった。」となぜか一人で納得して、気の抜けたような片手を支《つ》く。
「お師匠さん、あんた、これからその音声《のど》を芸妓屋《げいこや》の門《かど》で聞かしてお見やす。ほんに、人死《ひとじに》が出来ようも知れぬぜな。」と襟の処で、塗盆をくるりと廻す。
「飛んだ合せかがみだね、人死が出来て堪《たま》るものか。第一、芸妓屋《げいしゃや》の前へは、うっかり立てねえ。」
「なぜえ。」
「悪くすると敵《かたき》に出会《でっくわ》す。」と投首《なげくび》する。
「あれ、芸が身を助けると言う、……お師匠さん、あんた、芸妓《げいこ》ゆえの、お身の上かえ。……ほんにな、仇《かたき》だすな。」
「違った! 芸者の方で、私が敵さ。」
「あれ、のけのけと、あんな憎いこと言いなさんす。」と言う処へ、月は片明りの向う側。狭い町の、ものの気勢《けはい》にも暗い軒下を、からころ、からころ、駒下駄《こまげた》の音が、土間に浸込《しみこ》むように響いて来る。……と直ぐその足許《あしもと》を潜《くぐ》るように、按摩の笛が寂しく聞える。
門附は屹《きっ》と見た。
「噂をすれば、芸妓《げいこ》はんが通りまっせ。あんた、見たいなら障子を開けやす……そのかわり、敵打たりょうと思うてな。」
「ああ、いつでも打たれてやら。ちょッ、可厭《いや》に煩《うるさ》く笛を吹くない。」
かたりと門《かど》の戸を外から開ける。
「ええ、吃驚《びっくり》すら。」
「今晩は、――饂飩六ツ急いでな。」と草履穿《ぞうりば》きの半纏着《はんてんぎ》、背中へ白く月を浴びて、赤い鼻をぬいと出す。
「へい。」と筒抜けの高調子で、亭主帳場へ棒に突立《つッた》ち、
「お方、そりゃ早うせぬかい。」
女房は澄ましたもので、
「美しい跫音《あしおと》やな、どこの?」と聞く。
「こないだ山田の新町から住替えた、こんの島家の新妓《しんこ》じゃ。」と言いながら、鼻赤の若い衆は、覗《のぞ》いた顔を外に曲げる。
と門附は、背後《うしろ》の壁へ胸を反らして、ちょっと伸上るようにして、戸に立つ男の肩越しに、皎《こう》とした月の廓《くるわ》の、細い通《とおり》を見透かした。
駒下駄はちと音低く、まだ、からころと響いたのである。
「沢山《たんと》出なさるかな。」
「まあ、こんの饂飩のようには行かぬで。」
「その気で、すぐに届けますえ。」
「はい頼んます。」と、男は返る。
亭主帳場から背後《うしろ》向きに、日和下駄《ひよりげた》を探って下り、がたりびしりと手当り強く、そこへ広蓋《ひろぶた》を出掛《だしか》ける。ははあ、夫婦二人のこの店、気の毒千万、御亭が出前持を兼ねると見えたり。
「裏表とも気を注《つ》けるじゃ、可《え》いか、可いか。ちょっと道寄りをして来るで、可いか、お方。」
とそこいらじろじろと睨廻《ねめまわ》して、新地の月に提灯《ちょうちん》入《い》らず、片手懐にしたなりで、亭主が出前、ヤケにがっと戸を開けた。後《あと》を閉めないで、ひょこひょこ出て行《ゆ》く。
釜の湯気が颯《さっ》と分れて、門附の頬に影がさした。
女房横合から来て、
「いつまで、うっかり見送ってじゃ、そんなに敵《かたき》が打たれたいの。」
「女房《おかみ》さん、桑名じゃあ……芸者の箱屋は按摩かい。」と悚気《ぞっ》としたように肩を細く、この時やっと居直って、女房を見た、色が悪い。
十
「そうさ、いかに伊勢の浜荻《はまおぎ》だって、按摩の箱屋というのはなかろう。私もなかろうと思うが、今向う側を何んとか屋の新妓《しんこ》とか云うのが、からんころんと通るのを、何心なく見送ると、あの、一軒おき二軒おきの、軒行燈《のきあんどん》では浅葱《あさぎ》になり、月影では青くなって、薄い紫の座敷着で、褄《つま》を蹴出《けだ》さず、ひっそりと、白い襟を俯向《うつむ》いて、足の運びも進まないように何んとなく悄《しお》れて行く。……その後《あと》から、鼠色の影法師。女の影なら月に地《つち》を這《は》う筈《はず》だに、寒い道陸神《どうろくじん》が、のそのそと四五尺離れた処を、ずっと前方《むこう》まで附添ったんだ。腰附、肩附、歩行《ある》く振《ふり》、捏《で》っちて附着《くッつ》けたような不恰好《ぶかっこう》な天窓《あたま》の工合、どう見ても按摩だね、盲人《めくら》らしい、めんない千鳥よ。……私あ何んだ、だから、按摩が箱屋をすると云っちゃ可笑《おかし》い、盲目《めくら》になった箱屋かも知れないぜ。」
「どんな風の、どれな。」
と門《かど》へ出そうにする。
「いや、もう見えない。呼ばれた家《うち》へ入ったらしい。二人とも、ずっと前方《さき》で居なくなった。そうか。ああ、盲目の箱屋は居ねえのか。アまた殖《ふ》えたぜ……影がさす、笛の音に影がさす、按摩の笛が降るようだ。この寒い月に積《つも》ったら、桑名の町は針の山になるだろう、堪《たま》らねえ。」
とぐいと呷《あお》って、
「ええ、ヤケに飲め、一杯どうだ、女房《おかみ》さん附合いねえ。御亭主は留守だが、明放《あけっぱな》しよ、……構うものか。それ向う三軒の屋根越に、雪坊主のような山の影が覗《のぞ》いてら。」
と門を振向き、あ、と叫んで、
「来た、来た、来た、来やあがった、来やあがった、按摩々々、按摩。」
と呼吸《いき》も吐《つ》かず、続けざまに急込《せきこ》んだ、自分の声に、町の中に、ぬい、と立って、杖を脚許《あしもと》へ斜交《はすっか》いに突張《つッぱ》りながら、目を白く仰向《あおむ》いて、月に小鼻を照らされた流しの按摩が、呼ばれたものと心得て、そのまま凍附《いてつ》くように立留まったのも、門附はよく分らぬ状《さま》で、
「影か、影か、阿媽《おっかあ》、ほんとの按摩か、影法師か。」
と激しく聞く。
「ほんとなら、どうおしる。貴下《あんた》、そんなに按摩さんが恋しいかな。」
「恋しいよ! ああ、」
と呼吸《いき》を吐《つ》いて、見直して、眉を顰《ひそ》めながら、声高《こわだか》に笑った。
「ははははは、按摩にこがれてこの体《てい》さ。おお、按摩さん、按摩さん、さあ入ってくんねえ。」
門附は、撥《ばち》を除《の》けて、床几《しょうぎ》を叩いて、
「一つ頼もう。女房《おかみ》さん、済まないがちょいと借りるぜ。」
「この畳へ来て横におなりな。按摩さん、お客だす、あとを閉めておくんなさい。」
「へい。」
コトコトと杖の音。
「ええ……とんと早や、影法師も同然なもので。」と掠《かす》れ声を白く出して、黒いけんちゅう羊羹色《ようかんいろ》の被布《ひふ》を着た、燈《ともしび》の影は、赤くその皺《しわ》の中へさし込んだが、日和下駄から消えても失《う》せず、片手を泳ぎ、片手で酒の香を嗅分《かぎわ》けるように入った。
「聞えたか。」
とこの門附は、権のあるものいいで、五六本銚子の並んだ、膳をまた傍《わき》へずらす。
「へへへ」とちょっと鼻をすすって、ふん、とけなりそうに香《におい》を嗅《か》ぐ。
「待ちこがれたもんだから、戸外《そと》を犬が走っても、按摩さんに見えたのさ。こう、悪く言うんじゃないぜ……そこへぬっくりと顕《あらわ》れたろう、酔っている、幻かと思った。」
「ほんに待兼ねていなさったえ。あの、笛の音ばかり気にしなさるので、私もどうやら解《よ》めなんだが、やっと分ったわな、何んともお待遠でござんしたの。」
「これは、おかみさま、御繁昌《ごはんじょう》。」
「お客はお一人じゃ、ゆっくり療治してあげておくれ。それなりにお寝《よ》ったら、お泊め申そう。」
と言う。
按摩どの、けろりとして、
「ええ、その気で、念入りに一ツ、掴《つかま》りましょうで。」と我が手を握って、拉《ひし》ぐように、ぐいと揉《も》んだ。
「へい、旦那。」
「旦那じゃねえ。ものもらいだ。」とまた呷《あお》る。
女房が竊《そっ》と睨《にら》んで、
「滅相な、あの、言いなさる。」
十一
「いや、横になるどころじゃない、沢山だ、ここで沢山だよ。……第一背中へ掴《つか》まられて、一呼吸《ひといき》でも応《こた》えられるかどうだか、実はそれさえ覚束《おぼつか》ない。悪くすると、そのまま目を眩《まわ》して打倒《ぶったお》れようも知れんのさ。体《てい》よく按摩さんに掴み殺されるといった形だ。」
と真顔で言う。
「飛んだ事をおっしゃりませ、田舎でも、これでも、長年年期を入れました杉山流のものでござります。鳩尾《きゅうび》に鍼《はり》をお打たせになりましても、決して間違いのあるようなものではござりませぬ。」と呆《あき》れたように、按摩の剥《む》く目は蒼《あお》かりけり。
「うまい、まずいを言うのじゃない。いつの幾日《いくか》にも何時《なんどき》にも、洒落《しゃれ》にもな、生れてからまだ一度も按摩さんの味を知らないんだよ。」
「まあ、あんなにあんた、こがれなさった癖に。」
「そりゃ、張って張って仕様がないから、目にちらつくほど待ったがね、いざ……となると初産《ういざん》です、灸《きゅう》の皮切も同じ事さ。どうにも勝手が分らない。痛いんだか、痒《かゆ》いんだか、風説《うわさ》に因ると擽《くすぐ》ったいとね。多分私も擽ったかろうと思う。……ところがあいにく、母親《おふくろ》が操正しく、これでも密夫《まおとこ》の児《こ》じゃないそうで、その擽ったがりようこの上なし。……あれ、あんなあの、握飯《にぎりめし》を拵《こさ》えるような手附をされる、とその手で揉まれるかと思ったばかりで、もう堪《たま》らなく擽ったい。どうも、ああ、こりゃ不可《いけね》え。」
と脇腹へ両肱《りょうひじ》を、しっかりついて、掻竦《かいすく》むように脊筋を捻《よ》る。
「ははははは、これはどうも。」と按摩は手持不沙汰な風。
女房|更《あらた》めて顔を覗《のぞ》いて、
「何んと、まあ、可愛らしい。」
「同じ事を
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