。……当家《ここ》の味淋蒸、それが好《よ》かろう。」
 と小父者《おじご》納得した顔して頷《うなず》く。
「では、蛤でめしあがりますか。」
「何?」と、わざとらしく[#「わざとらしく」は底本では「わざとしらく」]耳を出す。
「あのな、蛤であがりますか。」
「いや、箸《はし》で食いやしょう、はははは。」
 と独《ひとり》で笑って、懐中から膝栗毛の五編を一冊、ポンと出して、
「難有《ありがた》い。」と額を叩く。
 女中も思わず噴飯《ふきだ》して、
「あれ、あなたは弥次郎兵衛様でございますな。」
「その通り。……この度の参宮には、都合あって五二館と云うのへ泊ったが、内宮様《ないぐうさま》へ参る途中、古市《ふるいち》の旅籠屋、藤屋の前を通った時は、前度いかい世話になった気で、薄暗いまで奥深いあの店頭《みせさき》に、真鍮《しんちゅう》の獅噛火鉢《しかみひばち》がぴかぴかとあるのを見て、略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辞儀をして来た。が、町が狭いので、向う側の茶店の新姐《しんぞ》に、この小兀《すこはげ》を見せるのが辛かったよ。」
 と燈《あかり》に向けて、てらりと光らす。
「ほほ、ほほ。」

前へ 次へ
全95ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング