も言いようのない心持になったのですえ。」
 と、脊筋を曲《くね》って、肩を入れる。
「お方《かた》、お方。」
 と急込《せきこ》んで、訳もない事に不機嫌な御亭《ごてい》が呼ばわる。
「何じゃいし。」と振向くと、……亭主いつの間にか、神棚の下《もと》に、斜《しゃ》と構えて、帳面を引繰《ひっく》って、苦く睨《にら》み、
「升屋《ますや》が懸《かけ》はまだ寄越さんかい。」
 と算盤《そろばん》を、ぱちりぱちり。
「今時どうしたえ、三十日《みそか》でもありもせんに。……お師匠さん。」
「師匠じゃないわ、升屋が懸じゃい。」
「そないに急に気になるなら、良人《あんた》、ちゃと行って取って来《き》い。」
 と下唇の刎調子《はねぢょうし》。亭主ぎゃふんと参った体《てい》で、
「二進が一進、二進が一進、二一《にいち》天作の五《ご》、五一三六七八九《ぐいちさぶろくななやあここの》。」と、饂飩の帳の伸縮《のびちぢ》みは、加減《さしひき》だけで済むものを、醤油《したじ》に水を割算段。
 と釜の湯気の白けた処へ、星の凍《い》てそうな按摩《あんま》の笛。月天心《つきてんしん》の冬の町に、あたかもこれ凩《こがらし》
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