「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。
「飛んでもない事、お忙しいに。」
「いえな、内じゃ芸妓屋《げいこや》さんへ出前ばかりが主《おも》ですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん佳《い》いお声ですな。なあ、良人《あんた》。」と、横顔で亭主を流眄《ながしめ》。
「さよじゃ。」
 とばかりで、煙草《たばこ》を、ぱっぱっ。
「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」

       五

「そう讃《ほ》められちゃお座が醒《さ》める、酔も醒めそうで遣瀬《やるせ》がない。たかが大道芸人さ。」
 と兄哥《あにい》は照れた風で腕組みした。
「私がお世辞を言うものですかな、真実《まったく》ですえ。あの、その、なあ、悚然《ぞっ》とするような、恍惚《うっとり》するような、緊《し》めたような、投げたような、緩めたような、まあ、何《な》んと言うて可《よ》かろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んと
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