搦《から》むように、私に縋《すが》ったのが、結綿《ゆいわた》の、その娘です。
 背中を揉んでた、薄茶を出した、あの影法師の妾《めかけ》だろう。
 ものを言う清《すずし》い、張《はり》のある目を上から見込んで、構うものか、行きがけだ。
(可愛い人だな、おい、殺されても死んでも、人の玩弄物《おもちゃ》にされるな。)
 と言捨てに突放《つッぱな》す。
(あれ。)と云う声がうしろへ、ぱっと吹飛ばされる風に向って、砂塵《しゃじん》の中へ、や、躍込むようにして一散に駈《か》けて返った。
 後《のち》に知った、が、妾じゃない。お袖と云うその可愛いのは、宗山の娘だったね。それを娘と知っていたら、いや、その時だって気が付いたら、按摩が親の仇敵《かたき》でも、私《わっし》あ退治るんじゃなかったんだ。」
 と不意にがッくりと胸を折って俯向《うつむ》くと、按摩の手が、肩を辷《すべ》って、ぬいと越す。……その袖の陰で、取るともなく、落した杯を探りながら、
「もしか、按摩が尋ねて来たら、堅く居《お》らん、と言え、と宿のものへ吩附《いいつ》けた。叔父のすやすやは、上首尾で、並べて取った床の中へ、すっぽり入って、引被《ひっかぶ》って、可《いい》心持に寝たんだが。
 ああ、寝心の好《い》い思いをしたのは、その晩きりさ。
 なぜッて、宗山がその夜の中《うち》に、私に辱《はずかし》められたのを口惜《くや》しがって、傲慢《ごうまん》な奴だけに、ぴしりと、もろい折方、憤死してしまったんだ。七代まで流儀に祟《たた》る、と手探りでにじり書《がき》した遺書《かきおき》を残してな。死んだのは鼓ヶ嶽の裾だった。あの広場《ひろっぱ》の雑樹へ下《さが》って、夜《よ》が明けて、やッと小止《こやみ》になった風に、ふらふらとまだ動いていたとさ。
 こっちは何にも知らなかろう、風は凪《な》ぐ、天気は可《よし》。叔父は一段の上機嫌。……古市を立って二見へ行った。朝の中《うち》、朝日館と云うのへ入って、いずれ泊る、……先へ鳥羽へ行って、ゆっくりしようと、直ぐに車で、上の山から、日の出の下、二見の浦の上を通って、日和山を桟敷《さじき》に、山の上に、海を青畳《あおだたみ》にして二人で半日。やがて朝日館へ帰る、……とどうだ。
 旅籠《はたご》の表は黒山の人だかりで、内の廊下もごった返す。大袈裟《おおげさ》な事を言うんじゃない。伊勢から私たちに逢いに来たのだ。按摩の変事と遺書《かきおき》とで、その日の内に国中へ知れ渡った。別にその事について文句は申さぬ。芸事で宗山の留《とどめ》を刺したほどの豪《えら》い方々、是非に一日、山田で謡《うたい》が聞かして欲しい、と羽織袴《はおりはかま》、フロックで押寄せたろう。
 いや、叔父が怒るまいか。日本一の不所存もの、恩地源三郎が申渡す、向後|一切《いっせつ》、謡を口にすること罷成《まかりな》らん。立処《たちどころ》に勘当だ。さて宗山とか云う盲人、己《おの》が不束《ふつつか》なを知って屈死した心、かくのごときは芸の上の鬼神《おにがみ》なれば、自分は、葬式《とむらい》の送迎《おくりむかい》、墓に謡を手向きょう、と人々と約束して、私はその場から追出された。
 あとの事は何も知らず、その時から、津々浦々をさすらい歩行《ある》く、門附の果敢《はかな》い身の上。」

       二十三

「名古屋の大須の観音の裏町で、これも浮世に別れたらしい、三味線一|挺《ちょう》、古道具屋の店にあったを工面《くめん》したのがはじまりで、一銭二銭、三銭じゃ木賃で泊めぬ夜《よ》も多し、日数をつもると野宿も半分、京大阪と経《へ》めぐって、西は博多まで行ったっけ。
 何んだか伊勢が気になって、妙に急いで、逆戻りにまた来た。……
 私が言ったただ一言《ひとこと》、(人のおもちゃになるな。)と言ったを、生命《いのち》がけで守っている。……可愛い娘に逢ったのが一生の思出《おもいで》だ。
 どうなるものでもないんだから、早く影をくらましたが、四日市で煩って、女房《おかみ》さん。」
 と呼びかけた。
「お前さんじゃないけれど、深切な人があった。やっと足腰が立ったと思いねえ。上方筋は何でもない、間違って謡を聞いても、お百姓が、(風呂が沸いた)で竹法螺《たけぼら》吹くも同然だが、東《あずま》へ上って、箱根の山のどてっぱらへ手が掛《かか》ると、もう、な、江戸の鼓が響くから、どう我慢がなるものか! うっかり謡をうたいそうで危くってならないからね、今切《いまぎれ》は越せません。これから大泉原《おおいずみはら》、員弁《いなべ》、阿下岐《あげき》をかけて、大垣街道。岐阜へ出たら飛騨越《ひだごえ》で、北国《ほっこく》筋へも廻ろうかしら、と富田近所を三日稼いで、桑名へ来たのが昨日《きのう》だった。
 その今夜はどうだ。不思議
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