歌行燈
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宮重《みやしげ》大根

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)酒|汲《く》みかわして、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
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       一

 宮重《みやしげ》大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪《なみ》ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦《よろこ》びのあまり……
 と口誦《くちずさ》むように独言《ひとりごと》の、膝栗毛《ひざくりげ》五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。中空《なかぞら》は冴切《さえき》って、星が水垢離《みずごり》取りそうな月明《つきあかり》に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯《ともしび》ちらちらと目の下に、遠近《おちこち》の樹立《こだち》の骨ばかりなのを視《なが》めながら、桑名の停車場《ステエション》へ下りた旅客がある。
 月の影には相応《ふさわ》しい、真黒《まっくろ》な外套《がいとう》の、痩《や》せた身体《からだ》にちと広過ぎるを緩く着て、焦茶色の中折帽、真新しいはさて可《い》いが、馴《な》れない天窓《あたま》に山を立てて、鍔《つば》をしっくりと耳へ被《かぶ》さるばかり深く嵌《は》めた、あまつさえ、風に取られまいための留紐《とめひも》を、ぶらりと皺《しな》びた頬へ下げた工合《ぐあい》が、時世《ときよ》なれば、道中、笠も載《の》せられず、と断念《あきら》めた風に見える。年配六十二三の、気ばかり若い弥次郎兵衛《やじろべえ》。
 さまで重荷ではないそうで、唐草模様の天鵝絨《びろうど》の革鞄《かばん》に信玄袋を引搦《ひきから》めて、こいつを片手。片手に蝙蝠傘《こうもりがさ》を支《つ》きながら、
「さて……悦びのあまり名物の焼蛤《やきはまぐり》に酒|汲《く》みかわして、……と本文《ほんもん》にある処《ところ》さ、旅籠屋《はたごや》へ着《ちゃく》の前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。(どうだ、喜多八《きだはち》。)と行きたいが、其許《そのもと》は年上で、ちとそりが合わぬ。だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、同伴《つれ》の喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下った宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうになったとあるです。ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。その道づれと、何《な》んと一口|遣《や》ろうではないか、ええ、捻平《ねじべい》さん。」
「また、言うわ。」
 と苦い顔を渋くした、同伴《つれ》の老人は、まだ、その上を四つ五つで、やがて七十《ななそじ》なるべし。臘虎《らっこ》皮の鍔《つば》なし古帽子を、白い眉尖《まゆさき》深々と被《かぶ》って、鼠の羅紗《らしゃ》の道行《みちゆき》着た、股引《ももひき》を太く白足袋の雪駄穿《せったばき》。色|褪《あ》せた鬱金《うこん》の風呂敷、真中《まんなか》を紐で結《ゆわ》えた包を、西行背負《さいぎょうじょい》に胸で結んで、これも信玄袋を手に一つ。片手に杖《つえ》は支《つ》いたけれども、足腰はしゃんとした、人柄の可《い》いお爺様《じいさま》。
「その捻平は止《よ》しにさっしゃい、人聞きが悪うてならん。道づれは可《よ》けれども、道中松並木で出来たと言うで、何とやら、その、私《わし》が護摩《ごま》の灰ででもあるように聞えるじゃ。」と杖を一つとんと支くと、後《あと》の雁《がん》が前《さき》になって、改札口を早々《さっさ》と出る。
 わざと一足|後《うしろ》へ開いて、隠居が意見に急ぐような、連《つれ》の後姿をじろりと見ながら、
「それ、そこがそれ捻平さね。松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。ははは、」
 人も無げに笑う手から、引手繰《ひったく》るように切符を取られて、はっと駅夫の顔を見て、きょとんと生真面目《きまじめ》。
 成程、この小父者《おじご》が改札口を出た殿《しんがり》で、何をふらふら道草したか、汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼《まっさお》な野路を光って通る。……
「やがてここを立出《たちい》で辿《たど》り行《ゆ》くほどに、旅人の唄うを聞けば、」
 と小父者、出た処で、けろりとしてまた口誦《くちずさ》んで、
「捻平さん、可《い》い文句だ、これさ。……
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時雨蛤《しぐれはまぐり》みやげにさんせ
   宮《みや》のおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし。」
[#ここで字下げ終わり]
「旦那《だんな》、お供はどうで、」
 と停車場《ステ
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