エション》前の夜の隈《くま》に、四五台|朦朧《もうろう》と寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。
これを聞くと弥次郎兵衛、口を捻《ね》じて片頬笑《かたほえ》み、
「有難《ありがて》え、図星という処へ出て来たぜ。が、同じ事を、これ、(旦那衆戻り馬乗らんせんか、)となぜ言わぬ。」
「へい、」と言ったが、車夫は変哲もない顔色《がんしょく》で、そのまま棒立。
二
小父者《おじご》は外套の袖をふらふらと、酔ったような風附《ふうつき》で、
「遣《や》れよ、さあ、(戻馬乗らんせんか、)と、後生《ごしょう》だから一つ気取ってくれ。」
「へい、(戻馬乗らせんか、)と言うでございますかね、戻馬乗らんせんか。」
と早口で車夫は実体《じってい》。
「はははは、法性寺入道前《ほうしょうじのにゅうどうさき》の関白《かんぱく》太政大臣《だじょうだいじん》と言ったら腹を立ちやった、法性寺入道前の関白太政大臣様と来ている。」とまたアハハと笑う。
「さあ、もし召して下さい。」
と話は極《きま》った筈《はず》にして、委細構わず、車夫は取着《とッつ》いて梶棒《かじぼう》を差向ける。
小父者、目を据えてわざと見て、
「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし。」
「いや、よしではない。」
とそこに一人つくねんと、添竹《そえだけ》に、その枯菊《かれぎく》の縋《すが》った、霜の翁《おきな》は、旅のあわれを、月空に知った姿で、
「早く車を雇わっしゃれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を当《あて》にぶらつこうで。」と口叱言《くちこごと》で半ば呟《つぶや》く。
「いや、まず一つ、(よヲしよし、)と切出さんと、本文に合わぬてさ。処へ喜多八が口を出して、(しょうろく四銭《しもん》で乗るべいか。)馬士《うまかた》が、(そんなら、ようせよせ。)と言いやす、馬がヒインヒインと嘶《いば》う。」
「若いもの、その人に構うまい。車を早く。川口の湊屋《みなとや》と言う旅籠屋《はたごや》へ行《ゆ》くのじゃ。」
「ええ、二台でござりますね。」
「何んでも構わぬ、私《わし》は急ぐに……」と後向《うしろむ》きに掴《つか》まって、乗った雪駄を爪立《つまだ》てながら、蹴込《けこ》みへ入れた革鞄を跨《また》ぎ、首に掛けた風呂敷包みを外ずしもしないで揺《ゆす》っておく。
「一蓮託生《いちれんたくしょう》、死なば諸共、捻平待ちやれ。」と、くすくす笑って、小父者も車にしゃんと乗る。……
「湊屋だえ、」
「おいよ。」
で、二台、月に提灯《かんばん》の灯《あかり》黄色に、広場《ひろっぱ》の端へ駈込《かけこ》むと……石高路《いしたかみち》をがたがたしながら、板塀の小路、土塀の辻、径路《ちかみち》を縫うと見えて、寂しい処幾曲り。やがて二階屋が建続き、町幅が糸のよう、月の光を廂《ひさし》で覆《おお》うて、両側の暗い軒に、掛行燈《かけあんどん》が疎《まばら》に白く、枯柳に星が乱れて、壁の蒼《あお》いのが処々。長い通りの突当りには、火の見の階子《はしご》が、遠山《とおやま》の霧を破って、半鐘《はんしょう》の形|活《い》けるがごとし。……火の用心さっさりやしょう、金棒《かなぼう》の音に夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓《こ》達は宵寝と見える、寂しい新地《くるわ》へ差掛《さしかか》った。
輻《やぼね》の下に流るる道は、細き水銀の川のごとく、柱の黒い家の状《さま》、あたかも獺《かわうそ》が祭礼《まつり》をして、白張《しらはり》の地口行燈《じぐちあんどん》を掛連ねた、鉄橋を渡るようである。
爺様の乗った前の車が、はたと留《とま》った。
あれ聞け……寂寞《ひっそり》とした一条廓《ひとすじくるわ》の、棟瓦《むねがわら》にも響き転げる、轍《わだち》の音も留まるばかり、灘《なだ》の浪を川に寄せて、千里の果《はて》も同じ水に、筑前の沖の月影を、白銀《しろがね》の糸で手繰ったように、星に晃《きら》めく唄の声。
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博多帯《はかたおび》しめ、筑前絞《ちくぜんしぼり》、
田舎の人とは思われぬ、
歩行《ある》く姿が、柳町、
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と博多節を流している。……つい目の前《さき》の軒陰に。……白地の手拭《てぬぐい》、頬被《ほおかむり》、すらりと痩《やせ》ぎすな男の姿の、軒のその、うどんと紅《べに》で書いた看板の前に、横顔ながら俯向《うつむ》いて、ただ影法師のように彳《たたず》むのがあった。
捻平はフト車の上から、頸《うなじ》の風呂敷包のまま振向いて、何か背後《うしろ》へ声を掛けた。……と同時に弥次郎兵衛の車も、ちょうどその唄う声を、町の中で引挟《ひっぱさ》んで、がっきと留まった。が、話の意味は通ぜずに、そのまま捻平のがまた曳出《ひ
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