もっとも、私が、あの、鳥羽の海へ投入れられた、その身の上も話しました。その方は不思議な事で、私とは敵《かたき》のような中だ事も、いろいろ入組んではおりますけれど、鼓ヶ嶽の裾の話は、誰にも言うな、と口留めをされました。何んにも話がなりません。
五日目に、もう可いから、これを舞って座敷をせい。芸なし、とは言うまい、ッて、お記念《かたみ》なり、しるしなりに、この舞扇を下さいました。」
と袖で胸へしっかと抱いて、ぶるぶると肩を震わした、後毛《おくれげ》がはらりとなる。
捻平|溜息《ためいき》をして頷《うなず》き、
「いや、よく分った。教え方も、習い方も、話されずとよく分った。時に、山田に居て、どうじゃな、その舞だけでは勤まらなんだか。」
「はい、はじめて謡《うた》いました時は、皆《みんな》が、わっと笑うやら、中には恐《おそろし》い怖《こわ》いと云う人もござんす。なぜ言うと、五日ばかり、あの私がな、天狗様に誘い出された、と風説《うわさ》したのでござんすから。」
「は、いかにも師匠が魔でなくては、その立方は習われぬわ。むむ、で、何かの、伊勢にも謡《うたい》うたうものの、五人七人はあろうと思うが、その連中には見せなんだか。」
「ええ、物好《ものずき》に試すって、呼んだ方もありましたが、地をお謡いなさる方が、何じゃやら、ちっとも、ものにならぬと言って、すぐにお留《や》めなさいましたの。」
「ははあ、いや、その足拍子を入れられては、やわな謡《うたい》は断《ちぎ》れて飛ぶじゃよ。ははははは、唸《うな》る連中|粉灰《こっぱい》じゃて。かたがたこの桑名へ、住替えとやらしたのかの。」
「狐狸や、いや、あの、吠《ほ》えて飛ぶ処は、梟《ふくろ》の憑物《つきもの》がしよった、と皆|気違《きちがい》にしなさいます。姉さんも、手放すのは可哀相や言って下さいましたけれど、……周囲《まわり》の人が承知しませず、……この桑名の島屋とは、行《ゆき》かいはせぬ遠い中でも、姉さんの縁続きでござんすから、預けるつもりで寄越《よこ》されましたの。」
「おお、そこで、また辛い思《おもい》をさせられるか。まずまず、それは後でゆっくり聞こう。……そのお娘《こ》、私《わし》も同一《おんなじ》じゃ。天魔でなくて、若い女が、術《わざ》をするわと、仰天したので、手を留めて済まなんだ。さあ、立直して舞うて下さい。大儀じゃろうが一さし頼む。私《わし》も久《ひさし》ぶりで可懐《なつか》しい、御身《おんみ》の姿で、若師匠の御意を得よう。」
と言《ことば》の中《うち》に、膝で解く、その風呂敷の中を見よ。土佐の名手が画《えが》いたような、紅《あか》い調《しらべ》は立田川《たつたがわ》、月の裏皮、表皮。玉の砧《きぬた》を、打つや、うつつに、天人も聞けかしとて、雲井、と銘《めい》ある秘蔵の塗胴《ぬりどう》。老《おい》の手捌《てさば》き美しく、錦《にしき》に梭《ひ》を、投ぐるよう、さらさらと緒を緊《し》めて、火鉢の火に高く翳《かざ》す、と……呼吸《いき》をのんで驚いたように見ていたお千は、思わず、はっと両手を支《つ》いた。
芸の威厳は争われず、この捻平を誰とかする、七十八歳の翁《おきな》、辺見秀之進。近頃孫に代《よ》を譲って、雪叟《せっそう》とて隠居した、小鼓取って、本朝無双の名人である。
いざや、小父者《おじご》は能役者、当流第一の老手、恩地源三郎、すなわちこれ。
この二人は、侯爵《こうしゃく》津の守《かみ》が、参宮の、仮の館《やかた》に催された、一調の番組を勤め済まして、あとを膝栗毛で帰る途中であった。
二十一
さて、饂飩屋《うどんや》では門附の兄哥《あにい》が語り次ぐ。
「いや、それから、いろいろ勿体つける所作があって、やがて大坊主が謡出《うたいだ》した。
聞くと、どうして、思ったより出来ている、按摩|鍼《はり》の芸ではない。……戸外《おもて》をどッどと吹く風の中へ、この声を打撒《ぶちま》けたら、あのピイピイ笛ぐらいに纏《まと》まろうというもんです。成程、随分|夥間《なかま》には、此奴《こいつ》に(的等。)扱いにされようというのが少くない。
が、私に取っちゃ小敵《しょうてき》だった。けれども芸は大事です、侮《あなど》るまい、と気を緊《し》めて、そこで、膝を。」
と坐直《すわりなお》ると、肩の按摩が上へ浮いて、門附の衣紋《えもん》が緊《しま》る。
「……この膝を丁《ちょう》と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋常《ただ》んじゃない。……親なり師匠の叔父きの膝に、小児《こども》の時から、抱かれて習った相伝だ。対手《あいて》の節の隙間を切って、伸縮《のびちぢ》みを緊《し》めつ、緩めつ、声の重味を刎上《はねあ》げて、咽喉《のど》の呼吸を突崩す。寸法を知らず、
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