内に、
(えへん)と咳《せきばらい》を太くして、大《おおき》な手で、灰吹を持上げたのが見えて、離れて煙管《きせる》が映る。――もう一倍、その時図体が拡がったのは、袖を開いたらしい。此奴《こいつ》、寝《ね》ん寝子《ねこ》の広袖《どてら》を着ている。
 やっと台洋燈を点《つ》けて、
(お待遠でした、さあ、)
 って二階へ。吹矢の店から送って来た女はと、中段からちょっと見ると、両膝をずしりと、そこに居た奴の背後《うしろ》へ火鉢を離れて、俯向《うつむ》いて坐った。
(あの娘《こ》で可《い》いのかな、他《ほか》にもござりますよって。)
 と六畳の表座敷で低声で言うんだ。――ははあ、商売も大略《あらまし》分った、と思うと、其奴《そいつ》が
(お誂《あつらえ》は。)
 と大《おおき》な声。
(あっさりしたものでちょっと一口。そこで……)
 実は……御主人の按摩さんの、咽喉《のど》が一つ聞きたいのだ、と話した。
(咽喉?)……と其奴がね、異《おつ》に蔑《さげす》んだ笑い方をしたものです。
(先生様の……でござりますか、早速そう申しましょう。)
 で、地獄の手曳《てびき》め、急に衣紋繕《えもんづくろ》いをして下りる。しばらくして上って来た年紀《とし》の少《わか》い十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが芥溜《はきだめ》に水仙です、鶴です。帯も襟も唐縮緬《とうちりめん》じゃあるが、もみじのように美しい。結綿《いいわた》のふっくりしたのに、浅葱《あさぎ》鹿《か》の子の絞高《しぼだか》な手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お膝許《ひざもと》で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、鯰《なまず》の鰭《ひれ》で濁ろう、と可哀《あわれ》に思う。この娘が紫の袱紗《ふくさ》に載《の》せて、薄茶を持って来たんです。
 いや、御本山の御見識、その咽喉《のど》を聞きに来たとなると……客にまず袴《はかま》を穿《は》かせる仕向《しむけ》をするな、真剣勝負面白い。で、こっちも勢《いきおい》、懐中《ふところ》から羽織を出して着直したんだね。
 やがて、また持出した、杯《さかずき》というのが、朱塗に二見ヶ浦を金蒔絵《きんまきえ》した、杯台に構えたのは凄《すご》かろう。
(まず一ツ上って、こっちへ。)
 と按摩の方から、この杯の指図をする。その工合が、謹んで聞け、といった、頗《すこぶ》る権高なものさ。どかりとそこへ構え込んだ。その容子《ようす》が膝も腹もずんぐりして、胴中《どうなか》ほど咽喉《のど》が太い。耳の傍《わき》から眉間《みけん》へ掛けて、小蛇のように筋が畝《うね》くる。眉が薄く、鼻がひしゃげて、ソレその唇の厚い事、おまけに頬骨がギシと出て、歯を噛《か》むとガチガチと鳴りそう。左の一眼べとりと盲《し》い、右が白眼《しろまなこ》で、ぐるりと飜《かえ》った、しかも一面、念入の黒痘瘡《くろあばた》だ。
 が、争われないのは、不具者《かたわ》の相格《そうごう》、肩つきばかりは、みじめらしくしょんぼりして、猪《い》の熊入道もがっくり投首の抜衣紋《ぬきえもん》で居たんだよ。」

       十五

「いえな、何も私が意地悪を言うわけではないえ。」
 と湊屋の女中、前垂の膝を堅くして――傍《かたわら》に柔かな髪の房《ふっさ》りした島田の鬢《びん》を重そうに差俯向《さしうつむ》く……襟足白く冷たそうに、水紅色《ときいろ》の羽二重《はぶたえ》の、無地の長襦袢《ながじゅばん》の肩が辷《すべ》って、寒げに脊筋の抜けるまで、嫋《なよ》やかに、打悄《うちしお》れた、残んの嫁菜花《よめな》の薄紫、浅葱《あさぎ》のように目に淡い、藤色|縮緬《ちりめん》の二枚着で、姿の寂しい、二十《はたち》ばかりの若い芸者を流盻《しりめ》に掛けつつ、
「このお座敷は貰《もろ》うて上げるから、なあ和女《あんた》、もうちゃっと内へお去《い》にや。……島家の、あの三重《みえ》さんやな、和女、お三重さん、お帰り!」
 と屹《きっ》と言う。
「お前さんがおいでやで、ようお客さんの御機嫌を取ってくれるであろうと、小女《こおんな》ばかり附けておいて、私が勝手へ立違うている中《うち》や、……勿体ない、お客たちの、お年寄なが気に入らぬか、近頃山田から来た言うて、こちの私の許《とこ》を見くびったか、酌をせい、と仰有《おっしゃ》っても、浮々《うきうき》とした顔はせず……三味線《さみせん》聞こうとおっしゃれば、鼻の頭《さき》で笑うたげな。傍《そば》に居た喜野が見かねて、私の袖を引きに来た。
 先刻《さっき》から、ああ、こうと、口の酸くなるまで、機嫌を取るようにして、私が和女の調子を取って、よしこの一つ上方唄でも、どうぞ三味線の音《ね》をさしておくれ。お客
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