様がお寂しげな、座敷が浮かぬ、お見やんせ、蝋燭《ろうそく》の灯も白けると、頼むようにして聞かいても、知らぬ、知らぬ、と言通す。三味線は和女、禁物か。下手や言うて、知らぬ云うて、曲《まがり》なりにもお座つき一つ弾けぬ芸妓《げいこ》がどこにある。
 よう、思うてもお見。平の座敷か、そでないか。貴客《あなた》がたのお人柄を見りゃ分るに、何で和女、勤める気や。私が済まぬ。さ、お立ち。ええ、私が箱を下げてやるから。」
 と優しいのがツンと立って、襖際《ふすまぎわ》に横にした三味線を邪険に取って、衝《つ》と縦様《たてざま》に引立てる。
「ああれ。」
 はっと裳《もすそ》を摺《す》らして、取縋《とりすが》るように、女中の膝を竊《そっ》と抱き、袖を引き、三味線を引留めた。お三重の姿は崩るるごとく、芍薬《しゃくやく》の花の散るに似て、
「堪忍して下さいまし、堪忍して、堪忍して、」と、呼吸《いき》の切れる声が湿《うる》んで、
「お客様にも、このお内へも、な、何で私が失礼しましょう。ほんとに、あの、ほんとに三味線は出来ませんもの、姉さん、」
 と言《ことば》が途絶えた。……
「今しがたも、な、他家《よそ》のお座敷、隅の方に坐っていました。不断ではない、兵隊さんの送別会、大陽気に騒ぐのに、芸のないものは置かん、衣服《きもの》を脱いで踊るんなら可《よし》、可厭《いや》なら下げると……私一人帰されて、主人の家《うち》へ戻りますと、直ぐに酷《ひど》いめに逢いました、え。
 三味線も弾けず、踊りも出来ぬ、座敷で衣物《きもの》が脱げないなら、内で脱げ、引剥《ひっぱ》ぐと、な、帯も何も取られた上、台所で突伏《つッぷ》せられて、引窓をわざと開けた、寒いお月様のさす影で、恥かしいなあ、柄杓《ひしゃく》で水を立続けて乳へも胸へもかけられましたの。
 こちらから、あの、お座敷を掛けて下さいますと、どうでしょう、炬燵《こたつ》で温《あたた》めた襦袢《じゅばん》を着せて、東京のお客じゃそうなと、な、取って置きの着物を出して、よう勤めて帰れや言うて、御主人が手で、駒下駄まで出すんです。
 勤めるたって、どうしましょう……踊は立って歩行《ある》くことも出来ませんし、三味線は、それが姉さん、手を当てれば誰にだって、音のせぬ事はないけれど、弾いて聞かせとおっしゃるもの、どうして私唄えます。……
 不具《かたわ》でもないに情《なさけ》ない。調子が自分で出来ません。何をどうして、お座敷へ置いて頂けようと思いますと、気が怯《ひ》けて気が怯けて、口も満足利けませんから、何が気に入らないで、失礼な顔をすると、お思い遊ばすのも無理はない、なあ。……
 このお家へは、お台所で、洗い物のお手伝をいたします。姉さん、え、姉さん。」
 と袖を擦《さす》って、一生懸命、うるんだ目許《めもと》を見得もなく、仰向《あおむ》けになって女中の顔。……色が見る見る柔《やわら》いで、突いて立った三味線の棹《さお》も撓《たわ》みそうになった、と見ると、二人の客へ、向直った、ふっくりとある綾《あや》の帯の結目《むすびめ》で、なおその女中の袂《たもと》を圧《おさ》えて。……

       十六

 お三重は、そして、更《あらた》めて二箇《ふたり》の老人に手を支《つ》いた。
「芸者でお呼び遊ばした、と思いますと……お役に立たず、極《きま》りが悪うございまして、お銚子《ちょうし》を持ちますにも手が震えてなりません。下婢《おさん》をお傍《そば》へお置き遊ばしたとお思いなさいまして、お休みになりますまでお使いなすって下さいまし。お背中を敲《たた》きましょう、な、どうぞな、お肩を揉《も》まして下さいまし。それなら一生懸命にきっと精を出します。」
 と惜気《おしげ》もなく、前髪を畳につくまで平伏《ひれふ》した。三指づきの折かがみが、こんな中でも、打上る。
 本を開いて、道中の絵をじろじろと黙って見ていた捻平が、重くるしい口を開けて、
「子孫末代よい意見じゃ、旅で芸者を呼ぶなぞは、のう、お互に以後謹もう……」と火箸に手を置く。
 所在なさそうに半眼で、正面《まとも》に臨風榜可小楼《りんぷうぼうかしょうろう》を仰ぎながら、程を忘れた巻莨《まきたばこ》、この時、口許へ火を吸って、慌てて灰へ抛《ほう》って、弥次郎兵衛は一つ咽《む》せた。
「ええ、いや、女中、……追って祝儀はする。ここでと思うが、その娘《こ》が気が詰《つま》ろうから、どこか小座敷へ休まして皆《みんな》で饂飩でも食べてくれ。私が驕《おご》る。で、何か面白い話をして遊ばして、やがて可《い》い時分に帰すが可い。」と冷くなった猪口《ちょこ》を取って、寂しそうに衝《つ》と飲んだ。
 女中は、これよりさき、支《つ》いて突立《つッた》ったその三味線を、次の室《ま》の暗い方へ密《そっ》と押
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