た隅田川へ落ちようとしたっさ。――その話にでも嫌いな按摩が。
 ええ。
 待て、見えない両眼で、汝《うぬ》が身の程を明《あかる》く見るよう、療治を一つしてくりょう。
 で、翌日《あくるひ》は謹んで、参拝した。
 その尊さに、その晩ばかりはちっとの酒で宵寝をした、叔父の夜具の裾を叩いて、枕許《まくらもと》へ水を置き、
(女中、そこいらへ見物に、)
 と言った心は、穴を圧《おさ》えて、宗山を退治る料簡《りょうけん》。
 と出た、風が荒い。荒いがこの風、五十鈴川《いすずがわ》で劃《かぎ》られて、宇治橋の向うまでは吹くまいが、相の山の長坂を下から哄《どっ》と吹上げる……これが悪く生温《なまぬる》くって、灯《あかり》の前じゃ砂が黄色い。月は雲の底に淀《どんよ》りしている。神路山《かみじやま》の樹は蒼《あお》くても、二見の波は白かろう。酷《ひど》い勢《いきおい》、ぱっと吹くので、たじたじとなる。帽子が飛ぶから、そのまま、藤屋が店へ投返した……と脊筋へ孕《はら》んで、坊さんが忍ぶように羽織の袖が飜々《ひらひら》する。着換えるのも面倒で、昼間のなりで、神詣《かみもう》での紋付さ。――袖畳みに懐中《ふところ》へ捻込《ねじこ》んで、何の洒落《しゃれ》にか、手拭で頬被りをしたもんです。
 門附になる前兆さ、状《ざま》を見やがれ。」と片手を袖へ、二の腕深く突込《つッこ》んだ。片手で狙《ねら》うように茶碗を圧《おさ》えて、
「ね、古市へ行くと、まだ宵だのに寂然《ひっそり》している。……軒が、がたぴしと鳴って、軒行燈《のきあんどん》がばッばッ揺れる。三味線《さみせん》の音もしたけれど、吹《ふき》さらわれて大屋根へ猫の姿でけし飛ぶようさ。何の事はない、今夜のこの寂しい新地へ、風を持って来て、打着《ぶッつ》けたと思えば可い。
 一軒、地《つち》のちと窪《くぼ》んだ処に、溝板《どぶいた》から直ぐに竹の欄干《てすり》になって、毛氈《もうせん》の端は刎上《はねあが》り、畳に赤い島が出来て、洋燈《ランプ》は油煙に燻《くすぶ》ったが、真白《まっしろ》に塗った姉さんが一人居る、空気銃、吹矢の店へ、ひょろりとして引掛《ひっかか》ったね。
 取着《とッつ》きに、肱《ひじ》を支《つ》いて、怪しく正面に眼《まなこ》の光る、悟った顔の達磨様《だるまさま》と、女の顔とを、七分三分に狙いながら、
(この辺に宗山ッて按摩は居るかい。)とここで実は様子を聞く気さ。押懸けて行《ゆ》こうたってちっとも勝手が知れないから。
(先生様かね、いらっしゃります。)と何と、(的等。)の一人に、先生を、しかも、様づけに呼ぶだろう。
(実は、その人の何を、一つ、聞きたくって来たんだが、誰が行っても頼まれてくれるだろうか。)と尋ねると、大熨斗《おおのし》を書いた幕の影から、色の蒼《あお》い、鬢《びん》の乱れた、痩《や》せた中年増《ちゅうどしま》が顔を出して、(知己《ちかづき》のない、旅の方にはどうか知らぬ、お望《のぞみ》なら、内から案内して上げましょうか。)と言う。
 茶代を奮発《はず》んで、頼むと言った。
(案内して上げなはれ、可《い》い旦那や、気を付けて、)と目配《めくばせ》をする、……と雑作はない、その塗ったのが、いきなり、欄干を跨《また》いで出る奴さ。」

       十四

「両袖で口を塞《ふさ》いで、風の中を俯向《うつむ》いて行《ゆ》く。……その女の案内で、つい向う路地を入ると、どこも吹附けるから、戸を鎖《さ》したが、怪しげな行燈《あんどん》の煽《あお》って見える、ごたごたした両側の長屋の中に、溝板《どぶいた》の広い、格子戸造りで、この一軒だけ二階屋。
 軒に、御手軽|御料理《おんりょうり》としたのが、宗山先生の住居《すまい》だった。
(お客様。)と云う女の送りで、ずッと入る。直ぐそこの長火鉢を取巻いて、三人ばかり、変な女が、立膝やら、横坐りやら、猫板に頬杖やら、料理の方は隙《ひま》らしい。……上框《あがりかまち》の正面が、取着《とッつ》きの狭い階子段《はしごだん》です。
(座敷は二階かい、)と突然《いきなり》頬被《ほおかむり》を取って上ろうとすると、風立つので燈《あかり》を置かない。真暗《まっくら》だからちょっと待って、と色めいてざわつき出す。とその拍子に風のなぐれで、奴等の上の釣洋燈《つりランプ》がぱっと消えた。
 そこへ、中仕切《なかじきり》の障子が、次の室《ま》の燈《あかり》にほのめいて、二枚見えた。真中《まんなか》へ、ぱっと映ったのが、大坊主の額の出た、唇の大《おおき》い影法師。む、宗山め、居るな、と思うと、憎い事には……影法師の、その背中に掴《つか》まって、坊主を揉《も》んでるのが華奢《きゃしゃ》らしい島田|髷《まげ》で、この影は、濃く映った。
 火燧《マッチ》々々、と女どもが云う
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