、仰向《あおむ》いて空を見た。晴れるといまに行くよ。
母様《おっかさん》は嘘をおっしゃらない。
博士は頻《しきり》に指《ゆびさ》ししていたが、口が利けないらしかった。で、一散に駈《か》けて来て、黙って小屋の前を通ろうとする。
「おじさんおじさん。」
と厳しく呼んでやった。追懸けて、
「橋銭を置いていらっしゃい、おじさん。」
とそういった。
「何だ!」
一通《ひととおり》の声ではない。さっきから口が利けないで、あのふくれた腹に一杯固くなるほど詰め込み詰め込みしておいた声を、紙鉄砲ぶつようにはじきだしたものらしい。
で、赤い鼻をうつむけて、額越《ひたいごし》に睨《にら》みつけた。
「何か。」と今度は鷹揚《おうよう》である。
私は返事をしませんかった。それは驚いたわけではない、恐《こわ》かったわけではない。鮟鱇《あんこう》にしては少し顔がそぐわ[#「そぐわ」に傍点]ないから何にしよう、何に肖《に》ているだろう、この赤い鼻の高いのに、さきの方が少し垂れさがって、上唇におっかぶさってる工合といったらない、魚《うお》より獣よりむしろ鳥の嘴《はし》によく肖ている。雀か、山雀《やまがら》か、そうでもない。それでもないト考えて七面鳥に思いあたった時、なまぬるい音調で、
「馬鹿め。」
といいすてにして、沈んで来る帽子をゆりあげて行《ゆ》こうとする。
「あなた。」とおっかさんが屹《きっ》とした声でおっしゃって、お膝の上の糸|屑《くず》を、細い、白い、指のさきで二ツ三ツはじき落して、すっと出て窓の処へお立ちなすった。
「渡《わたし》をお置きなさらんではいけません。」
「え、え、え。」
といったがじれったそうに、
「俺《おれ》は何じゃが、うう、知らんのか。」
「誰です、あなたは。」と冷《ひやや》かで、私こんなのを聞くとすっきりする。眼のさきに見える気にくわないものに、水をぶっかけて、天窓《あたま》から洗っておやんなさるので、いつでもこうだ、極めていい。
鮟鱇は腹をぶくぶくさして、肩をゆすったが、衣兜《かくし》から名刺を出して、笊《ざる》のなかへまっすぐに恭《うやうや》しく置いて、
「こういうものじゃ、これじゃ、俺じゃ。」
といって肩書の処を指《ゆびさ》した、恐しくみじかい指で、黄金《きん》の指環の太いのをはめている。
手にも取らないで、口のなかに低声《こごえ》におよみなすったのが、市内衛生会委員、教育談話会幹事、生命保険会社社員、一六会会長、美術奨励会理事、大野喜太郎。
「この方ですか。」
「うう。」といった時ふっくりした鼻のさきがふらふらして、手で、胸にかけた何だか徽章《きしょう》をはじいたあとで、
「分ったかね。」
こんどはやさしい声でそういったまままた行《ゆ》きそうにする。
「いけません。お払《はらい》でなきゃアあとへお帰んなさい。」とおっしゃった。
先生妙な顔をしてぼんやり立ってたが少しむきになって、
「ええ、こ、細《こまか》いのがないんじゃから。」
「おつりを差上げましょう。」
おっかさんは帯のあいだへ手をお入れ遊ばした。
十
母様《おっかさん》はうそをおっしゃらない。博士が橋銭をおいて遁《に》げて行《ゆ》くと、しばらくして雨が晴れた。橋も蛇籠も皆《みんな》雨にぬれて、黒くなって、あかるい日中《ひなか》へ出た。榎の枝からは時々はらはらと雫《しずく》が落ちる。中流へ太陽《ひ》がさして、みつめているとまばゆいばかり。
「母様遊びに行《ゆ》こうや。」
この時|鋏《はさみ》をお取んなすって、
「ああ。」
「ねえ、出かけたって可《い》いの、晴れたんだもの。」
「可いけれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかってはなりませんよ。そう可い塩梅《あんばい》にうつくしい羽の生えた姉さんがいつでもいるんじゃあありません。また落っこちようもんなら。」
ちょいと見向いて、清《すずし》い眼で御覧なすって、莞爾《にっこり》してお俯向《うつむ》きで、せっせと縫っていらっしゃる。
そう、そう! そうだった。ほら、あの、いま頬《ほ》っぺたを掻いて、むくむく濡れた毛からいきりをたてて日向《ひなた》ぼっこをしている、憎らしいッたらない。
いまじゃあもう半年も経《た》ったろう。暑さの取着《とッつき》の晩方頃で、いつものように遊びに行って、人が天窓《あたま》を撫《な》でてやったものを、業畜《ごうちく》、悪巫山戯《わるふざけ》をして、キッキッと歯を剥《む》いて、引掻《ひっか》きそうな剣幕をするから、吃驚《びっくり》して飛退《とびの》こうとすると、前足でつかまえた、放さないから力を入れて引張《ひっぱ》り合った奮《はず》みであった。左の袂《たもと》がびりびりと裂けて断《ちぎ》れて取れた、はずみをくって、踏占《ふみし》めた足がちょうど雨上りだったから、堪《たま》りはしない。石の上へ辷《すべ》って、ずるずると川へ落ちた。わっといった顔へ一波《ひとなみ》かぶって、呼吸《いき》をひいて仰向《あおむ》けに沈んだから、面くらって立とうとすると、また倒れて、眼がくらんで、アッとまたいきをひいて、苦しいので手をもがいて身体《からだ》を動かすとただどぶんどぶんと沈んで行《ゆ》く。情《なさけ》ないと思ったら、内に母様の坐っていらっしゃる姿が見えたので、また勢《いきおい》づいたけれど、やっぱりどぶんどぶんと沈むから、どうするのかなと落着いて考えたように思う。それから何のことだろうと考えたようにも思われる。今に眼が覚めるのであろうと思ったようでもある、何だかぼんやりしたが俄《にわか》に水ん中だと思って叫ぼうとすると水をのんだ。もう駄目だ。
もういかんとあきらめるトタンに胸が痛かった、それから悠々と水を吸った、するとうっとりして何だか分らなくなったと思うと、※[#「火+發」、164−5]《ぱっ》と糸のような真赤《まっか》な光線がさして、一幅《ひとはば》あかるくなったなかにこの身体《からだ》が包まれたので、ほっといきをつくと、山の端《は》が遠く見えて、私のからだは地《つち》を放れて、その頂より上の処に冷いものに抱えられていたようで、大きなうつくしい目が、濡髪をかぶって私の頬ん処へくっついたから、ただ縋《すが》り着いてじっとして眼を眠った覚《おぼえ》がある。夢ではない。
やっぱり片袖なかったもの。そして川へ落《おっ》こちて溺れそうだったのを救われたんだって、母様のお膝に抱かれていて、その晩聞いたんだもの。
だから夢ではない。
一体助けてくれたのは誰ですッて、母様に問うた。私がものを聞いて、返事に躊躇《ちゅうちょ》をなすったのはこの時ばかりで、また、それは猪だとか、狼だとか、狐だとか、頬白だとか、山雀だとか、鮟鱇だとか、鯖《さば》だとか、蛆《うじ》だとか、毛虫だとか、草だとか、竹だとか、松蕈《まつたけ》だとか、湿地茸《しめじ》だとかおいいでなかったのもこの時ばかりで、そして顔の色をおかえなすったのもこの時ばかりで、それに小さな声でおっしゃったのもこの時ばかりだ。
そして母様はこうおいいであった。
(廉や、それはね、大きな五色《ごしき》の翼《はね》があって天上に遊んでいるうつくしい姉さんだよ。)
十一
(鳥なの、母様《おっかさん》。)とそういってその時私が聴いた。
これにも母様は少し口籠《くちごも》っておいでであったが、
(鳥じゃあないよ、翼《はね》の生えた美しい姉さんだよ。)
どうしても分らんかった。うるさくいったら、しまいにゃ、お前には分らない、とそうおいいであったのを、また推返《おしかえ》して聴いたら、やっぱり、
(翼《はね》の生えたうつくしい姉さんだってば。)
それで仕方がないからきくのはよして、見ようと思った。そのうつくしい翼のはえたもの見たくなって、どこに居ます/\[#「/\」はママ]ッて、せッついても、知らないと、そういってばかりおいでであったが、毎日々々あまりしつこかったもんだから、とうとう余儀なさそうなお顔色《かおつき》で、
(鳥屋の前にでもいって見て来るが可《い》い。)
そんならわけはない。
小屋を出て二町ばかり行《ゆ》くと、直ぐ坂があって、坂の下口《おりくち》に一軒鳥屋があるので、樹蔭《こかげ》も何にもない、お天気のいい時あかるいあかるい小さな店で、町家《まちや》の軒ならびにあった。鸚鵡《おうむ》なんざ、くるッとした、露のたりそうな、小さな眼で、あれで瞳が動きますよ。毎日々々行っちゃあ立っていたので、しまいにゃあ見知顔で私の顔を見て頷《うなず》くようでしたっけ、でもそれじゃあない。
駒鳥《こま》はね、丈の高い、籠ん中を下から上へ飛んで、すがって、ひょいと逆《さかさ》に腹を見せて熟柿《じゅくし》の落《おっ》こちるようにぼたりとおりて、餌《え》をつついて、私をばかまいつけない、ちっとも気に懸けてくれようとはしなかった、それでもない。皆《みんな》違ってる。翼《はね》の生えたうつくしい姉さんは居ないのッて、一所に立った人をつかまえちゃあ、聞いたけれど、笑うものやら、嘲《あざ》けるものやら、聞かないふりをするものやら、つまらないとけなすものやら、馬鹿だというものやら、番小屋の媽々《かか》に似て此奴《こいつ》もどうかしていらあ、というものやら。皆《みんな》獣《けだもの》だ。
(翼《はね》の生えたうつくしい姉さんは居ないの。)ッて聞いた時、莞爾《にっこり》笑って両方から左右の手でおうように私の天窓《あたま》を撫《な》でて行った、それは一様に緋羅紗《ひらしゃ》のずぼんを穿《は》いた二人の騎兵で――聞いた時――莞爾《にっこり》笑って、両方から左右の手で、おうように私の天窓をなでて、そして手を引《ひき》あって黙って坂をのぼって行った。長靴の音がぽっくりして、銀の剣の長いのがまっすぐに二ツならんで輝いて見えた。そればかりで、あとは皆馬鹿にした。
五日ばかり学校から帰っちゃあその足で鳥屋の店へ行って、じっと立って、奥の方の暗い棚ん中で、コトコトと音をさしているその鳥まで見覚えたけれど、翼《はね》の生えた姉さんは居ないので、ぼんやりして、ぼッとして、ほんとうに少し馬鹿になったような気がしいしい、日が暮れると帰り帰りした。で、とても鳥屋には居ないものとあきらめたが、どうしても見たくッてならないので、また母様にねだって聞いた。どこに居るの、翼の生えたうつくしい人はどこに居るのッて。何とおいいでも肯分《ききわ》けないものだから母様が、
(それでは林へでも、裏の田圃《たんぼ》へでも行って、見ておいで。なぜッて、天上に遊んでいるんだから、籠の中に居ないのかも知れないよ。)
それから私、あの、梅林のある処に参りました。
あの桜山と、桃谷と、菖蒲《あやめ》の池とある処で。
しかし、それはただ青葉ばかりで、菖蒲の短いのがむらがってて、水の色の黒い時分、ここへも二日、三日続けて行《ゆ》きましたっけ、小鳥は見つからなかった。烏が沢山《たんと》居た。あれが、かあかあ鳴いて一しきりして静まるとその姿の見えなくなるのは、大方その翼《はね》で、日の光をかくしてしまうのでしょう。大きな翼《はね》だ、まことに大《おおき》い翼《つばさ》だ、けれどもそれではない。
十二
日が暮れかかると、あっちに一ならび、こっちに一ならび、横縦になって、梅の樹が飛々《とびとび》に暗くなる。枝々のなかの水田《みずた》の水がどんよりして淀《よど》んでいるのに際立って真白《まっしろ》に見えるのは鷺《さぎ》だった、二羽一ところに、ト三羽一ところに、ト居て、そして一羽が六尺ばかり空へ斜《ななめ》に足から糸のように水を引いて立ってあがったが音がなかった、それでもない。
蛙《かわず》が一斉に鳴きはじめる。森が暗くなって、山が見えなくなった。
宵月《よいづき》の頃だったのに、曇ってたので、星も見えないで、陰々として一面にものの色が灰のようにうるんでいた、蛙がしきりになく。
仰いで高い処に、朱の欄干のついた窓があって、そこが母様《おっかさん》のう
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