化鳥
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)愉快《おもしろ》いな

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三角|形《なり》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+散」、138−4]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)居ます/\
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       一

 愉快《おもしろ》いな、愉快いな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくっても可《い》いや、笠《かさ》を着て、蓑《みの》を着て、雨の降るなかをびしょびしょ濡れながら、橋の上を渡って行《ゆ》くのは猪《いのしし》だ。
 菅笠《すげがさ》を目深《まぶか》に被《かぶ》って、※[#「さんずい+散」、138−4]《しぶき》に濡れまいと思って向風《むかいかぜ》に俯向《うつむ》いてるから顔も見えない、着ている蓑の裙《すそ》が引摺《ひきず》って長いから、脚も見えないで歩行《ある》いて行《ゆ》く、脊の高さは五尺ばかりあろうかな、猪、としては大《おおき》なものよ、大方猪ン中の王様があんな三角|形《なり》の冠を被《き》て、市《まち》へ出て来て、そして、私の母様《おっかさん》の橋の上を通るのであろう。
 トこう思って見ていると愉快《おもしろ》い、愉快い、愉快い。
 寒い日の朝、雨の降ってる時、私の小さな時分、何日《いつか》でしたっけ、窓から顔を出して見ていました。
「母様《おっかさん》、愉快《おもしろ》いものが歩行《ある》いて行《ゆ》くよ。」
 その時母様は私の手袋を拵《こしら》えていて下すって、
「そうかい、何が通りました。」
「あのウ猪。」
「そう。」といって笑っていらっしゃる。
「ありゃ猪だねえ、猪の王様だねえ。
 母様《おっかさん》。だって、大《おおき》いんだもの、そして三角|形《なり》の冠を被ていました。そうだけれども、王様だけれども、雨が降るからねえ、びしょぬれになって、可哀相《かわいそう》だったよ。」
 母様は顔をあげて、こっちをお向きで、
「吹込みますから、お前もこっちへおいで、そんなにしていると、衣服《きもの》が濡れますよ。」
「戸を閉めよう、母様、ね、ここん処《とこ》の。」
「いいえ、そうしてあけておかないと、お客様が通っても橋銭を置いて行ってくれません。ずるいからね、引籠《ひっこも》って誰も見ていないと、そそくさ通抜けてしまいますもの。」
 私はその時分は何にも知らないでいたけれども、母様《おっかさん》と二人ぐらしは、この橋銭で立って行ったので、一人《ひとり》前いくらかずつ取って渡しました。
 橋のあったのは、市《まち》を少し離れた処で、堤防《どて》に松の木が並んで植《うわ》っていて、橋の袂《たもと》に榎《えのき》が一本、時雨榎《しぐれえのき》とかいうのであった。
 この榎の下に、箱のような、小さな、番小屋を建てて、そこに母様と二人で住んでいたので、橋は粗造な、まるで、間に合せといったような拵え方、杭《くい》の上へ板を渡して竹を欄干にしたばかりのもので、それでも五人や十人ぐらい一時《いっとき》に渡ったからッて、少し揺れはしようけれど、折れて落ちるような憂慮《きづかい》はないのであった。
 ちょうど市《まち》の場末に住んでる日傭取《ひようとり》、土方、人足、それから、三味線《さみせん》を弾いたり、太鼓を鳴《なら》して飴《あめ》を売ったりする者、越後獅子《えちごじし》やら、猿廻《さるまわし》やら、附木《つけぎ》を売る者だの、唄を謡うものだの、元結《もっとい》よりだの、早附木の箱を内職にするものなんぞが、目貫《めぬき》の市《まち》へ出て行《ゆ》く往帰《ゆきかえ》りには、是非|母様《おっかさん》の橋を通らなければならないので、百人と二百人ずつ朝晩|賑《にぎや》かな人通りがある。
 それからまた向うから渡って来て、この橋を越して場末の穢《きたな》い町を通り過ぎると、野原へ出る。そこン処《とこ》は梅林で、上の山が桜の名所で、その下に桃谷というのがあって、谷間《たにあい》の小流《こながれ》には、菖蒲《あやめ》、燕子花《かきつばた》が一杯咲く。頬白《ほおじろ》、山雀《やまがら》、雲雀《ひばり》などが、ばらばらになって唄っているから、綺麗《きれい》な着物を着た間屋の女《むすめ》だの、金満家《かねもち》の隠居だの、瓢《ひさご》を腰へ提げたり、花の枝をかついだりして千鳥足で通るのがある。それは春のことで。夏になると納涼《すずみ》だといって人が出る。秋は蕈狩《たけがり》に出懸けて来る、遊山《ゆさん》をするのが、皆《みんな》内の橋を通らねばならない。
 この間も誰かと二三人づれで、学校のお師匠さんが、内の前を通って、私の顔を見たから、丁寧にお辞儀をすると、おや、といったきりで、橋銭を置かないで行ってしまった。
「ねえ、母様《おっかさん》、先生もずるい人なんかねえ。」
 と窓から顔を引込《ひっこ》ませた。

       二

「お心易立《こころやすだて》なんでしょう、でもずるいんだよ。よっぽどそういおうかと思ったけれど、先生だというから、また、そんなことで悪く取って、お前が憎まれでもしちゃなるまいと思って、黙っていました。」
 といいいい母様《おっかさん》は縫っていらっしゃる。
 お膝の上に落ちていた、一ツの方の手袋の、恰好《かっこう》が出来たのを、私は手に取って、掌《てのひら》にあててみたり、甲の上へ乗ッけてみたり、
「母様《おっかさん》、先生はね、それでなくっても僕のことを可愛がっちゃあ下さらないの。」
 と訴えるようにいいました。
 こういった時に、学校で何だか知らないけれど、私がものをいっても、快く返事をおしでなかったり、拗《す》ねたような、けんどんなような、おもしろくない言《ことば》をおかけであるのを、いつでも情《なさけ》ないと思い思いしていたのを考え出して、少し鬱《ふさ》いで[#「で」は底本では「て」]来て俯向《うつむ》いた。
「なぜさ。」
 何、そういう様子の見えるのは、つい四五日前からで、その前《さき》にはちっともこんなことはありはしなかった。帰って母様《おっかさん》にそういって、なぜだか聞いてみようと思ったんだ。
 けれど、番小屋へ入ると直《すぐ》飛出して遊んであるいて、帰ると、御飯を食べて、そしちゃあ横になって、母様の気高い美しい、頼母《たのも》しい、穏当な、そして少し痩《や》せておいでの、髪を束ねてしっとりしていらっしゃる顔を見て、何か談話《はなし》をしいしい、ぱっちりと眼をあいてるつもりなのが、いつか、そのまんまで寝てしまって、眼がさめると、また直《すぐ》支度を済《すま》して、学校へ行《ゆ》くんだもの。そんなこといってる隙《ひま》がなかったのが、雨で閉籠《とじこも》って、淋しいので思い出した、ついでだから聞いたので。
「なぜだって、何なの、この間ねえ、先生が修身のお談話《はなし》をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだって、そういつたの。母様《おっかさん》、違ってるわねえ。」
「むむ。」
「ねッ違ってるワ、母様。」
 と揉《もみ》くちゃにしたので、吃驚《びっくり》して、ぴったり手をついて畳の上で、手袋をのした。横に皺《しわ》が寄ったから、引張《ひっぱ》って、
「だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆《みんな》おんなじ動物《けだもの》だって。」
「何とおっしゃったね。」
「馬鹿なことをおっしゃいって。」
「そうでしょう。それから、」
「それから、(だって、犬や、猫が、口を利きますか、ものをいいますか)ッて、そういうの。いいます。雀だってチッチッチッチッて、母様《おっかさん》と、父様《おとっさん》と、児《こども》と朋達《ともだち》と皆《みんな》で、お談話《はなし》をしてるじゃあありませんか。僕眠い時、うっとりしてる時なんぞは、耳ン処《とこ》に来て、チッチッチて、何かいって聞かせますのッてそういうとね、(詰《つま》らない、そりゃ囀《さえず》るんです。ものをいうのじゃあなくッて囀るの、だから何をいうんだか分りますまい)ッて聞いたよ。僕ね、あのウだってもね、先生、人だって、大勢で、皆《みんな》が体操場で、てんでに何かいってるのを遠くン処《とこ》で聞いていると、何をいってるのかちっとも分らないで、ざあざあッて流れてる川の音とおんなしで、僕分りませんもの。それから僕の内の橋の下を、あのウ舟|漕《こ》いで行《ゆ》くのが何だか唄って行《ゆ》くけれど、何をいうんだかやっぱり鳥が声を大きくして長く引《ひっ》ぱって鳴いてるのと違いませんもの。ずッと川下の方で、ほうほうッて呼んでるのは、あれは、あの、人なんか、犬なんか、分りませんもの。雀だって、四十雀《しじゅうから》だって、軒だの、榎だのに留《とま》ってないで、僕と一所に坐って話したら皆《みんな》分るんだけれど、離れてるから聞えませんの。だって、ソッとそばへ行って、僕、お談話しようと思うと、皆立っていってしまいますもの、でも、いまに大人になると、遠くで居ても分りますッて。小さい耳だから、沢山いろんな声が入らないのだって、母様が僕、あかさん[#「あかさん」に傍点]であった時分からいいました。犬も猫も人間もおんなじだって。ねえ、母様、だねえ母様、いまに皆分るんだね。」


       三

 母様《おっかさん》は莞爾《にっこり》なすって、
「ああ、それで何かい、先生が腹をお立ちのかい。」
 そればかりではなかった、私の児心《こどもごころ》にも、アレ先生が嫌な顔をしたな、トこう思って取ったのは、まだモ少し種々《いろん》なことをいいあってから、それから後の事で。
 はじめは先生も笑いながら、ま、あなたがそう思っているのなら、しばらくそうしておきましょう。けれども人間には智慧《ちえ》というものがあって、これには他《ほか》の鳥だの、獣《けだもの》だのという動物が企て及ばないということを、私が河岸に住まっているからって、例をあげておさとしであつた。
 釣《つり》をする、網を打つ、鳥をさす、皆《みんな》人の智慧で、何も知らない、分らないから、つられて、刺されて、たべられてしまうのだトこういうことだった。そんなことは私聞かないで知っている、朝晩見ているもの。
 橋を挟んで、川を遡《さかのぼ》ったり、流れたりして、流網《ながれあみ》をかけて魚《うお》を取るのが、川ン中に手拱《てあぐら》かいて、ぶるぶるふるえて突立《つッた》ってるうちは、顔のある人間だけれど、そらといって水に潜ると、逆《さかさ》になって、水潜《みずくぐり》をしいしい五分間ばかりも泳いでいる、足ばかりが見える。その足の恰好《かっこう》の悪さといったらない。うつくしい、金魚の泳いでる尾鰭《おひれ》の姿や、ぴらぴらと水銀色を輝かして跳ねてあがる鮎《あゆ》なんぞの立派さにはまるでくらべものになるのじゃあない。そうしてあんな、水浸《みずびたし》になって、大川の中から足を出してる、こんな人間がありますものか。で、人間だと思うとおかしいけれど、川ン中から足が生えたのだと、そう思って見ているとおもしろくッて、ちっとも嫌なことはないので、つまらない観世物《みせもの》を見に行《ゆ》くより、ずっとまし、なのだって、母様がそうお謂《い》いだから、私はそう思っていますもの。
 それから、釣をしてますのは、ね、先生、とまたその時先生にそういいました。あれは人間じゃあない、蕈《きのこ》なんで、御覧なさい。片手|懐《ふところ》って、ぬうと立って、笠を被《かぶ》ってる姿というものは、堤防《どて》の上に一|本《ぽん》占治茸《しめじ》が生えたのに違いません。
 夕方になって、ひょろ長い影がさして、薄暗い鼠色の立姿にでもなると、ますます占治茸で、ずっと遠い遠い処まで一ならびに、十人も三十人も、小さいのだの、大きいのだの、短いのだの、長いのだの、一番橋手前のを頭《かしら
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