お》いてある、この小《ちい》さな窓《まど》から風《ふう》がはりな猪《いぬしゝ》だの、奇躰《きたい》な簟《きのこ》だの、不思議《ふしぎ》な猿《さる》だの、まだ其他《そのた》に人《ひと》の顔《かほ》をした鳥《とり》だの、獣《けもの》だのが、いくらでも見《み》えるから、ちつとは思出《おもひで》になるトいつちやあ、アノ笑顔《わらひがほ》をおしなので、私《わたし》もさう思《おも》つて見《み》る故《せい》か、人《ひと》があるいて行《ゆ》く時《とき》、片足《かたあし》をあげた処《ところ》は一本脚《いつぽんあし》の鳥《とり》のやうでおもしろい、人《ひと》の笑《わら》ふのを見《み》ると獣《けだもの》が大《おほ》きな赤《あか》い口《くち》をあけたよと思《おも》つておもしろい、みいちやんがものをいふと、おや小鳥《ことり》が囀《さへづ》るかトさう思《おも》つてをかしいのだ。で、何《なん》でもおもしろくツてをかしくツて吹出《ふきだ》さずには居《ゐ》られない。
だけれど今《いま》しがたも母様《おつかさん》がおいひの通《とほ》り、こんないゝことを知《し》つてるのは、母様《おつかさん》と私《わたし》ばかりで何《ど》うして、みいちやんだの、吉公《きちこう》だの、それから学校《がくかう》の女《をんな》の先生《せんせい》なんぞに教《をし》へたつて分《わか》るものか。
人《ひと》に踏《ふ》まれたり、蹴《け》られたり、後足《うしろあし》で砂《すな》をかけられたり、苛《いぢ》められて責《さいな》まれて、熱湯《にえゆ》を飲《の》ませられて、砂《すな》を浴《あび》せられて、鞭《むち》うたれて、朝《あさ》から晩《ばん》まで泣通《なきどほ》しで、咽喉《のど》がかれて、血《ち》を吐《は》いて、消《き》えてしまいさうになつてる処《ところ》を、人《ひと》に高見《たかみ》で見物《けんぶつ》されて、おもしろがられて、笑《わら》はれて、慰《なぐさみ》にされて、嬉《うれ》しがられて、眼《め》が血走《ちばし》つて、髪《かみ》が動《うご》いて、唇《くちびる》が破《やぶ》れた処《ところ》で、口惜《くや》しい、口惜《くや》しい、口惜《くや》しい、口惜《くや》しい、畜生《ちくしやう》め、獣《けだもの》め、ト始終《しじう》さう思《おも》つて、五|年《ねん》も八|年《ねん》も経《た》たなければ、真個《ほんとう》に分《わか》ることではない、覚《お
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