、
「もう、奥様《おくさん》、何時《なんどき》です。」
「は。」
とお貞は起《た》ちたるが、不意に顛倒《てんどう》して、起ちつ、居つ。うろうろ四辺《あたり》を見廻す間《ひま》に、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取出《とりいだ》し、丁寧に打視《うちなが》めて、少年を仰ぎ見んともせず、
「五十九分前六時です。」
「憚様《はばかりさま》。」
と少年は跫音《あしおと》高く二階に上れり。
時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻に向《むか》いて、沈める音調、
「貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。」
面《おもて》は死灰のごとくなりき。
十五
時彦はその時よりまた起《た》たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復《かいふく》の望《のぞみ》絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。
渠《かれ》は良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一七日《いちしちにち》いまだかつて瞼《まぶ
前へ
次へ
全67ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング