た》を合さず、渠は茶を断ちて神に祈れり。塩を断ちて仏に請えり。しかれども時彦を嫌悪の極、その死の速《すみや》かならんことを欲する念は、良人に薬を勧むる時も、その疼痛《とうつう》の局部を擦《さす》る隙《ひま》も、須臾《しゅゆ》も念頭を去りやらず。甚しいかなその念の深く刻めるや、おのが幾年の寿命を縮め、身をもて神仏の贄《にえ》に供えて、合掌し、瞑目《めいもく》して、良人の本復を祈る時も、その死を欲するの念は依然として信仰の霊を妨げたり。
 良人の衰弱は日に著《しる》けきに、こは皆おのが一念よりぞと、深更四隣静まりて、天地沈々、病者のために洋燈《ランプ》を廃して行燈《あんどん》にかえたる影暗く、隙間《すきま》もる風もあらざるにぞ、そよとも動かぬ灯影《ほかげ》にすかして、その寂《じゃく》たること死せるがごとき、病者の面をそと視《なが》めて、お貞は顔を背けつつ、頤《おとがい》深く襟に埋《うず》めば、時彦の死を欲する念、ここぞと熾《さかん》に燃立ちて、ほとんど我を制するあたわず。そがなすままに委《まか》しおけば、奇異なる幻影|眼前《めさき》にちらつき、※[#「火+發」、153−7]《ぱっ》と火花の散るごとく、良人の膚《はだ》を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽《かす》けき呻吟声《うめきごえ》の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら悼《いた》み、且つ泣き、且つ怒《いか》り、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる時、
「お貞。」
 と一声《ひとこえ》、時彦は、鬱《うつ》し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。
 この一声を聞くとともに、一桶《ひとおけ》の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、
「はい。」
 と戦《おのの》きたり。
 時彦はいともの静《しずか》に、
「お前、このごろから茶を断ッたな。」
「いえ、何も貴下《あなた》、そんなことを。」
 と幽かにいいて胸を圧《おさ》えぬ。
 時彦は頤《おとがい》のあたりまで、夜着の襟深く、仰向《あおむけ》に枕して、眼細《まぼそ》く天井を仰ぎながら、
「塩断《しおだち》もしてるようだ。一昨日《おととい》あたりから飯も食べないが、一体どういう了簡《りょうけん》じゃ。」
(貴下を直したいために)といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差俯向《さしうつむ》きてお貞は黙しぬ。
「あかりが暗い、掻立《かきた》てるが可い。お前
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