の衷情《ちゅうじょう》に、少年は太《いた》く動かされつ。思わず暗涙《なみだ》を催したり。
「ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可《いけな》いよ。」
 お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、
「嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑怯《ひきょう》よ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃ面《つら》あてにでも、活《い》きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっと堪《こら》えて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。」
 ほろりとして見る少年の眼にも涙を湛《たた》えたり。時に二階より老女の声。
「芳や、帰ったの。」
「あれ、おばあさんが。」
「はい、唯今《ただいま》。」

       十四

 二段ばかり少年は壇階子《だんばしご》を昇り懸けて、と顧みて驚きぬ。時彦は帰宅して、はや上口《あがりぐち》の処に立てり。
 我が座を立ちしと同時ならむ。と思うも見るもまたたくま、さそくの機転、下を覗《のぞ》きて、
「もう、奥様《おくさん》、何時《なんどき》です。」
「は。」
 とお貞は起《た》ちたるが、不意に顛倒《てんどう》して、起ちつ、居つ。うろうろ四辺《あたり》を見廻す間《ひま》に、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取出《とりいだ》し、丁寧に打視《うちなが》めて、少年を仰ぎ見んともせず、
「五十九分前六時です。」
「憚様《はばかりさま》。」
 と少年は跫音《あしおと》高く二階に上れり。
 時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻に向《むか》いて、沈める音調、
「貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。」
 面《おもて》は死灰のごとくなりき。

       十五

 時彦はその時よりまた起《た》たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復《かいふく》の望《のぞみ》絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。
 渠《かれ》は良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一七日《いちしちにち》いまだかつて瞼《まぶ
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