むぐさしたが、
「はははは、私《わし》ぐらいの年の婆《ばあ》さまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって嫁入《よめい》りにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、掛金《かけがね》も何にもない、南無妙、」
と二人を見て、
「ははあ、傘《かさ》なしじゃの、いや生憎《あいにく》の雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」
とばッさり窄《すぼ》める。
「何、構やしないよ。」
「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、312−5]《ねえ》さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」
「済みませんねえ、」
と顔を赤らめながら、
「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」
「私は濡れても天日《てんぴ》で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇《かんぬしどのべっこん》じゃ、宿坊《しゅくぼう》で借りて行く……南無妙、」
と押《おっ》つけるように出してくれる。
捧《ささ》げるように両手で取って、
「大助《おおだすか》りです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」
と見返って、莞爾《にっこり》して、
「どうも、嬰児《ねんね》のように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」
と今の姿を見られたろう、と極《きまり》の悪さにいいわけする。
お君は俯向《うつむ》いて、紫《むらさき》の半襟《はんえり》の、縫《ぬい》の梅《うめ》を指でちょいと。
仁右衛門《にえもん》、はッはと笑い、
「おお、名物の梟かい。」
「いいえ、それよりか、そのもみじ狩《がり》の額の鬼が、」
「ふむ、」
と振仰いで、
「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、余吾将軍維茂《よごしょうぐんこれもち》ではない。見さっしゃい。烏帽子素袍大紋《えぼしすおうだいもん》じゃ。手には小手《こて》、脚《あし》にはすねあてをしているわ……大森彦七《おおもりひこしち》じゃ。南無妙、」
と豊かに目を瞑《つぶ》って、鼻の下を長くしたが、
「山頬《やまぎわ》の細道を、直様《すぐさま》に通るに、年の程十七八|計《ばかり》なる女房《にょうぼう》の、赤き袴に、柳裏《やなぎうら》の五衣《いつつぎぬ》着て、鬢《びん》深《ふか》く鍛《そ》ぎたるが、南無妙。
山の端《は》の月に映《えい》じて、ただ独り彳《たたず》みたり。……これからよ、南無妙。
女ちと打笑うて、嬉《うれ》しや候。さらば御桟敷《おんさじき》へ参り候《そうら》わんと云いて、跡《あと》に付きてぞ歩みける。羅綺《らき》にだも不勝姿《たえざるすがた》、誠《まこと》に物痛《ものいたわ》しく、まだ一足も土をば不蹈人《ふまざるひと》よと覚えて、南無妙。
彦七|不怺《こらえず》、余《あまり》に露《つゆ》も深く候えば、あれまで負進《おいまいら》せ候わんとて、前に跪《ひざまず》きたれば、女房すこしも不辞《じせず》、便《びん》のう、いかにかと云いながら、やがて後《うしろ》にぞ靠《よりかか》りける、南無妙。
白玉か何ぞと問いし古《いにし》えも、かくやと思知《おもいしら》れつつ、嵐《あらし》のつてに散花《ちるはな》の、袖に懸《かか》るよりも軽やかに、梅花《ばいか》の匂《におい》なつかしく、蹈足《ふむあし》もたどたどしく、心も空に浮《うか》れつつ、半町《はんちょう》ばかり歩みけるが、南無妙。
月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも厳《いつく》しかりけるこの女房、南無妙。」
といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて懐《ふところ》へ入れたが、身体《からだ》は平気で、石段、てく、てく。
九
ニ《フタツ》ノ眼《マナコ》ハ朱《シュ》ヲ解《トイ》テ。鏡ノ面《オモテ》ニ洒《ソソ》ゲルガゴトク。上下《ウエシタ》歯クイ違《チゴウ》テ。口脇《クチワキ》耳ノ根マデ広ク割《サ》ケ。眉《マユ》ハ漆《ウルシ》ニテ百入塗《モモシオヌリ》タルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。振分髪《フリワケガミ》ノ中ヨリ。五寸計《ゴスンバカリ》ナル犢《コウシ》ノ角。鱗《ウロコ》ヲカズイテ生出《おいい》でた、長《たけ》八|尺《しゃく》の鬼が出ようかと、汗《あせ》を流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は怯《おび》えずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに物寂《ものさびし》い顔である。
「さ、出かけよう。」
と謙造はもうここから傘《からかさ》ばッさり。
「はい、あなた飛んだご迷惑《めいわく》でございます。」
「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路《みち》はまだそんなでもないから、跣足《はだし》には及《およ》ぶまいが、裾をぐいとお上《あ》げ、構わず、」
「それでも、」
「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら引絡《ひっから》まって歩行悪《あるきにく》そうだった。
極《きまり》の悪いことも何にもない。誰も見やしないから、これから先は、人ッ子一人居やしない、よ、そうおし、」
「でも、余《あんま》り、」
片褄《かたづま》取って、その紅《くれない》のはしのこぼれたのに、猶予《ためら》って恥《はずか》しそう。
「だらしがないから、よ。」
と叱《しか》るように云って、
「母様《おっかさん》に逢いに行くんだ。一体、私の背《せなか》に負《お》んぶをして、目を塞《ふさ》いで飛ぶところだ。構うもんか。さ、手を曳《ひ》こう、辷《すべ》るぞ。」
と言った。暮れかかった山の色は、その滑《なめら》かな土に、お君の白脛《しらはぎ》とかつ、緋《ひ》の裳《もすそ》を映した。二人は額堂を出たのである。
「ご覧、目の下に遠く樹立《こだち》が見える、あの中の瓦屋根《かわらやね》が、私の居る旅籠《はたご》だよ。」
崕《がけ》のふちで危《あぶな》っかしそうに伸上《のびあが》って、
「まあ、直《じき》そこでございますね。」
「一飛《ひとッと》びだから、梟が迎いに来たんだろう。」
「あれ。」
「おっと……番毎怯《ばんごとおび》えるな、しっかりと掴《つかま》ったり……」
「あなた、邪慳《じゃけん》にお引張《ひッぱ》りなさいますな。綺麗《きれい》な草を、もうちっとで蹈《ふ》もうといたしました。可愛《かわい》らしい菖蒲《あやめ》ですこと。」
「紫羅傘《いちはつ》だよ、この山にはたくさん咲《さ》く[#「咲《さ》く」は底本では「吹《さ》く」]。それ、一面に。」
星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が薄鼠《うすねずみ》になって濡れたから、しきりなく梟の声につけても、その紫の俤《おもかげ》が、燐火《おにび》のようで凄《すご》かった。
辿《たど》る姿は、松にかくれ、草にあらわれ、坂に沈《しず》み、峰に浮んで、その峰つづきを畝々《うねうね》と、漆のようなのと、真蒼《まさお》なると、赭《しゃ》のごときと、中にも雪を頂いた、雲いろいろの遠山《とおやま》に添うて、ここに射返《いかえ》されたようなお君《きみ》の色。やがて傘《かさ》一つ、山の端《は》に大《おおき》な蕈《くさびら》のようになった時、二人はその、さす方の、庚申堂《こうしんどう》へ着いたのである。
と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は後《のち》に、御母様《おっかさん》がそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の思違《おもいちが》いであったろう。
框《かまち》がすぐに縁《えん》で、取附《とッつ》きがその位牌堂。これには天井《てんじょう》から大きな白の戸帳《とばり》が垂《た》れている。その色だけ仄《ほのか》に明くって、板敷《いたじき》は暗かった。
左に六|畳《じょう》ばかりの休息所がある。向うが破襖《やれぶすま》で、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の居《い》る処。勝手口は裏にあって、台所もついて、井戸《いど》もある。
が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。
前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸|漏《も》る明《あかり》を見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。
横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が氷《こおり》を削《けず》ったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また怯《おび》えようと、それは閉めたままでおいたのである。
十
その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を捻《ねじ》るようにして懐《ふところ》がみで足を拭《ぬぐ》って、下駄《げた》を、謙造のも一所に拭《ふ》いて、それから穿直《はきなお》して、外へ出て、広々とした山の上の、小さな手水鉢《ちょうずばち》で手を洗って、これは手巾《ハンケチ》で拭《ぬぐ》って、裾をおろして、一つ揺直《ゆすりなお》して、下褄《したづま》を掻込《かいこ》んで、本堂へ立向って、ト頭《つむり》を下げたところ。
「こちらへお入り、」
と、謙造が休息所で声をかける。
お君がそっと歩行《ある》いて行くと、六畳の真中に腕組《うでぐみ》をして坐《すわ》っていたが、
「まあお坐んなさい。」
と傍《かたわら》へ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた拍子《ひょうし》に、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、横手《よこって》のその窓に並《なら》んだ二段に釣《つ》った棚《たな》があって、火鉢《ひばち》燭台《しょくだい》の類、新しい卒堵婆《そとば》が二本ばかり。下へ突込んで、鼠の噛《かじ》った穴から、白い切《きれ》のはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い古葛籠《ふるつづら》が一折。その中の棚に斜《はす》っかけに乗せてあった経机《きょうづくえ》ではない小机の、脚を抉《えぐ》って満月を透《すか》したはいいが、雲のかかったように虫蝕《むしくい》のあとのある、塗《ぬ》ったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると……
「有った、有った。」
と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を背後《うしろ》に、端然《きちん》と坐った、お君のふっくりした衣紋《えもん》つきの帯の処へ、中腰になって舁据《かきす》えて置直すと、正面を避《さ》けて、お君と互違《たがいちが》いに肩を並べたように、どっかと坐って、
「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、暮方《くれがた》にはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。
薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の幻《まぼろし》だったのか、と大抵《たいてい》気を揉《も》んだ事じゃない。
お君さん、」
と云って、無言ながら、懐《なつか》しげなその美い、そして恍惚《うっとり》となっている顔を見て、
「その机だ。お君さん、あなたの母様《おっかさん》の記念《かたみ》というのは、……
こういうわけだ。また恐《こわ》がっちゃいけないよ。母様《おっかさん》の事なんだから。
いいかい。
一昨日《おととい》ね。私の両親《ふたおや》の墓は、ついこの右の方の丘《おか》の松蔭《まつかげ》にあるんだが、そこへ参詣《おまいり》をして、墳墓《はか》の土に、薫《かおり》の良《い》い、菫《すみれ》の花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、三本《みもと》ばかり摘《つ》んで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、父親《おやじ》の居《い》る時分、連立って阿母《おふくろ》の墓参《はかまいり》をすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お祖師様《そしさま》の一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに諳記《そら》でやるくらい話がおもしろい爺様《じいさま》だから、日が暮れるまで坐り込んで、提灯《ちょうちん》を借りて帰ることなんぞあった馴染《なじみ》だから、ここへ寄った。
いいお天気で、からりと日が照っていたから、この間中《あいだじゅう》の湿気払《し
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